Undertaleというゲームについての与太話。ネタバレを含みます。

私たちは常に他人の視線に晒されています。
街を歩いている時に他人から見られないで済ますというわけには行きません。ある意味で我々の行動は他人のまなざしによって規定され、制限されています。
例えばファミレスで明太パスタを食べた後、皿に残った明太子の粒々をねぶりとったりしないのは、そこに他人の視線があるからでしょう。
家の中にいれば他人のまなざしから逃げられるでしょうか?しかし、家の中に籠って隠れても、LINEの友達からはあなたからのメッセージが来ないことを監視されている、そうではないでしょうか。
じゃあ無人島に住めばまなざしから逃れられるでしょうか?しかし無人島で一人で生き抜くのは困難です。
というわけで我々はこの社会で生きてる限り他人からのまなざしから逃れる事は不可能でしょう。
そして、他者からのまなざしによって自分の人生が規定され、束縛を受ける事からは逃れられないのです。

ちなみに僕は読んでないですが、見田宗助さんの「まなざしの地獄」という本には、他者とは生きる意味と喜びの源泉であり、また、ありとあらゆる不幸の元であるというような事が書いてあるそうです。

前置きはこれくらいにして、Undertaleの話に入ります。
Undertaleでは主人公(Frisk)は執拗に徹底的に他者のまなざしに晒されます。

トリエルさんは最初、主人公の一挙手一投足を見守ってますし、別れた後も執拗に電話してきます。

次に現れるフラウィーも「君が誰も殺さないでどこまでいけるか楽しみだ」というような事を言ったのち、後をつけてきて見張ってきます(もと来た道を歩くとたまにチラチラ映る)

一番極端なところでは、RUINSを抜けたら茂みやら何やらそこらじゅうに監視カメラがあり後ほどアルフィス博士が主人公の行動を常に見張っているという。映画のトゥルーマンショーばりの見られっぷりです。

サンズも行く先々で現れて、主人公の冒険を監視してるみたいだし、最終的には主人公の行いの審判を下します。やはり強力な眼差しです。(「ちゃんと目ん玉ひん剥いて見といてやるからよ」)
雪かけらを持ってエンディングを迎えるとその事について言及しますが、つまりそういうところまで見張られてます。

マフェットの蜘蛛もクモのドーナツやサイダーを買ったかどうかで対応が変わりますね。

パピルスとアンダインは友達になるまでは主人公を追いかけて捕まえようとします。追跡のまなざしですね。友達になった後も常に電話に応じてくれるので、ある意味で間接的な監視と言えるかもしれません。

隠しキャラのガスターさんも、次元のはざまに砕け散って世界に遍在するようになってしまい、主人公の事を見ているらしいです。

主人公を何度もTVショーに出演を強制するメタトンなんかは、まさに主人公をトゥルーマンに仕立て上げようとしてると言えるでしょう。EX戦なんかは視聴率も爆上げになってしまって、まさに地下世界中のまなざしを主人公に集めてしまった感じです。

さて、これでどいつもこいつも主人公にまなざしを向けている事はわかりましたが、どのまなざしにもある期待が込められてします。
「いい子にしてなさい」という期待です。
Gルートのパピルス戦でのパピルスのセリフなんかが象徴的だと思います。
これらの期待のまなざしによって主人公の行動は規定され、不殺を貫いたりもするでしょう。

しかしまなざしは同時に束縛でもあります。
他者からのまなざしに縛られたくない、しかし他者が存在する以上まなざしからは逃れられない。

本当にそうかしら?だったら他者がいなくなればいいじゃない。
というのがGルートって感じでしょうか。

Gルートを完遂して、世界を破壊して、これで誰も眼差しを向ける者はいなくなった。
私は自由だ!
と思ってたら出てくるのがCharaです。Charaは主人公の中に潜んでいて、主人公の事をずっと見ていた存在です。
ある意味自分自身みたいなものです。
世界を破壊してそして誰もいなくなっても、結局自分を見つめる自身のまなざしからは逃げられなかった…というオチだった…?

そういえばCharaがお目目パッチリなのに対して主人公はずーっと目を閉じています。
つまり主人公はまなざしを持っていないという事です。
という事は他者を規定し縛ることができません。
トリエルさんやアルフィスやパピルスにアプローチしてデートしても毎回フラれるのは主人公がまなざしを持たざる者だからかもしれませんね。(Charaにはベストフレンドがいる)