松永伸司さんが書いた「ビデオゲームの美学」という本を読んだので、内容をメモ書きします。

ゲームについて哲学的に分析してみたという本です。この本では個々のゲームについていいとか悪いとか論じるんじゃなく、ゲームの分析に使える道具箱を提供するのが目的だとしています。

私としてはゲームを作るのに役に立つかもなと思って読んでみました。

こういう本って単に著者が思い付いた事をつらつら書いてるだけで、どういう根拠で言ってるんだよ?とツッコミたくなるような本だったりするよな…(いやそれはむしろこのブログの事だろう)と最初思ってましたが、実際読んでみると、過去にゲームについて研究していた人たちの説などを色々と取り上げて、AさんとBさんの説のいいとこ取りして折衷した説を生み出す。みたいな感じで相当しっかりした論が書かれています。

それもそのはずで、元々この本は松永さんの博士論文だったものを書き足して本にしたものなんだそうです。

ですから、先行研究している人たちの諸々の本や論文をあれこれ読まなくてもこれ一冊だけ読んでおけば一気にポイントを押さえられて便利です。

というわけで内容メモを書いていきます。
ちなみに、このメモは自分なりの要約ですが、私の理解力の問題によって本の内容を正しく捉え切れてない部分があると思うので、その点注意してください。難しい言い方をしてる所とかは自分でも分かるように言い直したりしてます。正確な情報についてはちゃんと本を当たってください。

第Ⅰ部 芸術としてのビデオゲーム

第一章の最初のところで、「第Ⅰ部では、Ⅱ部とⅢ部での議論を始める前にゲームの定義やら何やらややこしい抽象的な話を詰めておく作業をするので、普通の人達には読んでも意味無い部分だから飛ばしてもOK」みたいな書いてたので、お言葉に甘えて読み飛ばしました。

第Ⅱ部 一つの画面と二つの意味

第四章 ビデオゲームの統語論

ゲームは主に画面上の映像やテキストとして記号が表示され、プレイヤーに意味が伝わるという仕組みになってます。

ゲームを語る時に、画面上の”記号”とその記号が示す”内容”がゴッチャにされるケースが多くて困るという話があります。

例えば、PONGの画面で言うと、表示されている”ドット”や”バー”は記号ですが、PONGを卓球に見立てるとするならば、これらは”ボール”や”ラケット”と呼ぶこともできますが、それは記号の内容について言っている…という話になります。

PONGの中央の点線は、記号としては”点線”ですが、内容は何を指してるのか?というと、よく分かりません。ゲーム的にも、別にこの点線が無くても困りません。つまり、この点線は記号ではありません。(記号が示す内容が無いから)

さて、ゲーム画面上に記号がある事は分かりましたが、サウンドについてはどうでしょう?
BGMは、表してる内容がありませんから、大抵は記号ではありません。

SEは、例えばマリオが移動してる時に鳴る音は、”マリオの足音”という内容がありますので、記号ではありますが、まあ別に画面だけ見ればマリオが動いてる事は分かりますから、画面でも同じ記号が表示されてる事になります。つまり、音を消してたとしても遊ぶのに支障はありません。

音でしか表示されない記号も稀にあるらしいです。ドラクエ2の「やまびこのふえ」というアイテムを使うと、もし画面内に”もんしょう”があればSEが鳴ります。SEが鳴るだけで画面上では何も起きないので音を消してプレイしてたらここだけは詰みます。

コントローラの振動とかは記号を表すのか?というと、特定の内容を持っているという感じでもないので、記号では無さそうです。

で、何なのか?と言うと、ゲームでは聴覚とか触覚よりも視覚の記号が重要だから、この本では視覚について重点的に話すという事です。

次に、インタラクティブについて。
ゲームは一般的にインタラクティブなものだと言われていますが、プレイヤーが相互作用しているのは画面上の記号だけなのでしょうか?

たとえば、パックマンは256面をクリアすると画面がバグッて壊れてしまいますが、それでもプレイ続行できます。
この場合、プレイヤーが画面上の記号と相互作用しているというより、画面の背後にある、ゲームメカニクスと相互作用しているというのが正しいでしょう。

とは言え、普通はゲームメカニクスは画面上の記号と一致しています。つまり、プレイヤーは画面上の記号と相互作用しつつ、同時にゲームメカニクスとも相互作用する感じになります。

だから何なの?というと、ゲームメカニクスの一部の情報をわざと画面から隠す事で面白くする事も可能になります。たとえば、アドベンチャーゲームでは情報を隠す事でプレイヤーは推理を楽しめたりします。

ゲーセンのクレーンゲームとかは見たまんまのゲーム機と直接相互作用するので、そういう敢えて何か情報を隠して楽しませるみたいな遊びはできません。

第五章 ビデオゲームの意味論

ゲームの画面は、ゲームメカニクスを表す記号であると同時に、フィクション世界を表す記号でもあります。
フィクション世界って何じゃ?というと、マリオで言えば”マリオという人間が生きていて生活しているキノコ王国の世界”です。

という事は、ゲーム画面上の記号は、ゲームメカニクス世界についての内容を持っている場合と、フィクション世界の内容を持っている場合があります。

マリオの画面で言うと、画面上のスコア表示の記号は、ゲームメカニクス世界では”スコア表示”を表していますが、フィクション世界の内容は持ってません。
その逆に背景の雲とか山とかの記号は、ゲームメカニクス世界での内容を持ってません(ゲーム的には無意味)が、フィクション世界での”雲”や”山”を表しています。

マリオの記号については、ゲームメカニクス世界では”プレイヤーキャラ”を表しており、フィクション世界では”マリオという人間”を表しています。

第六章 虚構世界

ゲームにはインタラクティブなフィクションという側面があります。

プレイヤーは、プレイヤーキャラを通じてゲームのフィクション世界に入り込んで同一化します。

例えば、ドラクエ5ではプレイヤーは結婚相手でビアンカを選ぶかフローラを選ぶか、2択を強いられます。
ここでプレイヤーがフローラを選んでしまったら、ビアンカは山奥で寂しく暮らす事になります。
そうすると、プレイヤーは罪悪感を抱えて自分の選択の過ちを後悔したりします。

この時、プレイヤーはゲームのフィクション世界に没入して、キャラクターの気持ちを考えたり、助けたいと思ったりします。

こういうのはゲームというインタラクティブなフィクションならではです。

また、プレイヤーキャラと自分が単に同一化するパターン以外に、ゲームのキャラクターに自分がなりきってロールプレイするパターンもあります。

その場合は、プレイヤーは自分が選択するというよりは、「このキャラだったらどういう選択をするだろうか?」と想像して行動を選択するので、その選択が悲劇を引き起こしたとしても、「オレのせいじゃねえ!このキャラがやった!」って思いがちです。

さて、ゲームはインタラクティブなフィクションというだけでなく、ゲームメカニクスを持ったゲームという側面も当然持ってます。

ドラクエ5で結婚相手をキャラ性能だけで選ぶ人もいるかもしれませんが、その人はフィクション世界よりゲームメカニクス世界の方に関心がある事になります。

第七章 ゲームメカニクス

ゲームメカニクスはプレイヤーの行為をデザインするモノだと言えます。

ゲームプレイヤーが何故ゲームを遊ぶのか?というと、ゲームが遊びたいからとしか言いようがありません。

ゲームは必ずしもそれ自体が遊んでて楽しいとは限りません。割と苦行なゲームもあったりします。

ですが、格ゲーが上手い人とかFPSが上手い人のプレイを観てると、「センスあるなあ、カッコいいなあ」と思ったりします。(美的行為)

ですから自分もそうしたいと思うからゲームを遊ぶと言えるかもしれません。

という事は、ゲームメカニクスを設計する人は、そういう状況が生まれるように考えなきゃいけませんが(美的行為のデザイン)、これは簡単な事じゃないでしょう。

第Ⅲ部 二つの意味のあいだで遊ぶ 

第八章 二種類の意味論の相互作用

ゲームでは、ゲームプレイヤーは普通、画面上の記号のフィクション世界での内容を見て、ゲームメカニクス世界での内容を類推します。

例えば、ドラクエで階段を見たら、「まあゲームメカニクス的にはここに移動すると別のフロアに移動できるんだろう。」と自然に想像します。

これはまあ一種の推理ですが、別にたのしい推理ではありません。たのしい推理をさせられるようになると、それは謎解きのゲーム性が生まれて、たとえば推理アドベンチャーゲームみたくなります。

「MOTHER」では、家のドアに入れるドアと入れないドアがあって、最初は何で入れないの!?と驚きます。フィクション世界からの類推が上手く機能しないパターンです。

また、ゲームにはシミュレーションの側面があります。つまり、ゲームメカニクスがフィクション世界をモデル化しているという事です。

例えばRPGでキャラのパラメータは、フィクション世界でのそのキャラの能力をモデル化しています。
クラウドというキャラがティファというキャラよりHPが多ければ、フィクション世界上でもクラウドはティファよりタフなんだろうなあと想像します。

これはゲームメカニクスを見てフィクション世界を想像したわけで、ドラクエのフィクション世界の階段を見てゲームメカニクスを類推したのと逆の流れです。

他の例では、Simcityに出てくる原子力発電所の記号は、それが示すフィクション世界上の”原子力発電所”という内容を見て、プレイヤーは「普段は公害が出ないけどたまにメルトダウンとかしそうだな」というゲームメカニクス上の機能を想像します。実際、それは「たまにメルトダウンする」というゲームメカニクスを持っていて、フィクション世界上で原子力発電所を建設する事のリスクをシミュレートしています。

そのような感じで、大半のビデオゲームでは、ゲームメカニクスによってフィクション世界の内容がシミュレートされると同時に、画面上で直接、テキストや画像としてフィクション世界の内容が表されています。

例えばFF7での飛空艇は画像としてフィクション世界での飛空艇という内容が表されているのと同時に、またそれは空を飛行できるというゲームメカニクスによってフィクション世界の飛空艇をシミュレートしています。まあゲームでは大抵は何でもそうなっているという事です。

第九章 ビデオゲームの空間

2Dゲームとか3Dゲームとか言いますが、そもそも、ゲームの画面上での空間表現と、ゲームメカニクス上の空間表現はしばしば一致しません

FPSとかだと、画面で見える空間表現とゲームメカニクス上での空間表現はピッタリ一致します。

しかし、スマブラなんかだと、画面的には3Dグラフィックスで、見た感じは奥や手前にも行けそうですが、実際のゲームメカニクス的には上下左右の二次元的にしか移動できません。

第十章 ビデオゲームの時間

ゲームには3種類の時間があります。
まず、ゲームをプレイしている間の現実での時間の進み方、実時間。
次に、ゲーム世界での時間の進み方、ゲーム時間。
それから、フィクション世界での時間、虚構時間。

リアルタイム性のあるゲームだと、実時間と同じようにゲーム時間も流れます。
しかし、ターンベースとかだと、ターン中はゲーム時間が止まってて、ターンが切り替わるごとにゲーム時間が一気にポンと進んだりします。

第十一章 プレイヤーの虚構的行為

例えば、ゲームを遊んでるS君を見て、「Sはキノコを取った」とか「Sは宿屋に泊まった」とか言いがちです。

でも、現実世界にいるS君が、フィクション世界のキノコを取るなんて不可能ですよね?
それなのに何でこういう言い方をしてしまうのか?

まあでも、将棋で遊ぶ時にも「飛車を取る」とか言いますよね。
これは現実で行ってるゲーム行為です。
また、飛車を取るいうのは実際には飛車を表す記号である”飛車と書かれた駒”を取ってます。

これをマリオで言うと、まずプレイヤーは1UPしたいと思ってコントローラでマリオを操作するというゲーム行為を行います。
このゲーム行為によって、フィクション世界でマリオがキノコを手に入れている様子が画面上に記号として表されます。
で、この”フィクション世界でマリオがキノコを手に入れている様子”を記述しようとすれば、フィクション上での語彙「キノコを取る」が使われます。
つまり、このゲーム行為は「キノコを取る」という言い方になります。
で、そのゲーム行為を行ったのは、現実世界のプレイヤーですから、「Sはキノコを取った」という言い方は正しいという事になります。

さて、だから何だ?という話ですが、まあ例えばFPSで敵を殺した時に、「Sは敵を殺した」という言い方になりますが、これは現実にS君が殺人したわけじゃなくて、S君はゲーム行為としてゲームメカニクス上で敵を殺しただけだからセーフという話ができたりするという事です。

第十二章 行為のシミュレーション

ビデオゲームは行為のシミュレーションとして捉える事もできます。

でも、「シミュレーションってのは普通、現実世界の何かをシミュレートして解を求めたりするのに使うんだが、ゲームのシミュレーションって違くね?」という人もいます。

フィクションはシミュレートできないのでしょうか?
でも、例えばガンプラとかありますが、あれはフィクションのロボットをモデル化したものですから、という事はフィクションのモデル化、つまりシミュレーションは可能に思えます。

ちなみに、モデルとその対象は必ずしも似てません。
例えば、鉄道模型は実際の鉄道と比べるとサイズも材質も違います。
まあ形だけは似てます。

つまり、モデルはそれが表してる性質の一部の特徴を抽出したものだと言えます。

ビデオゲームをシミュレーションだと捉えると、フィクション世界をモデル化したものがゲームメカニクスだと言えます。

まあ歴史シミュレーションやフライトシミュレータのように、必ずしもフィクション世界じゃなくて現実世界をモデル化してる場合もありますが。

「ぷよぷよ」とかは別にゲームメカニクスが何かフィクション世界をシミュレートしてるとかいうわけでもありません。

まあ、こういうのはある程度解釈の問題です。
「テトリス」を「アメリカの過重労働社会のシミュレーションだ!」と解釈する人もいます。(何言ってだ)

それで、ゲームが行為のシミュレーションだとすると、プレイヤーがゲームメカニクスに対して行った行為がフィクション世界上での行為に見立てられる時にそれが成立する事になります。

ですから、ゲームメカニクスはプレイヤーに①ゲームでできる事(移動とか戦闘とか)②ゲームでできる事についての情報(薬草を使うとHPが回復するよ、とか)③目標(ゲームクリア) を与えます。

プレイヤーはこれらを元にゲームをプレイしますが、ゲームプレイがフィクション世界での勇者の行動に見立てられる場合(例えばプレイヤーがキャラを洞窟に移動させる事は、フィクション世界では勇者が洞窟に探検しに潜ったと見立てられる)、行為のシミュレーションが成立します。

この例ではゲーム行為は勇者の行為をシミュレートしてる事になりますが、このように、普通はゲームではプレイヤーキャラの行為をシミュレートします。ゴッドゲームではその世界の神の行為をシミュレートします。

ゲーム行為とフィクション上での行為は、一部しか似ていない場合があります。

例えばGTA4では車を強奪できますが、コントローラのボタンを1回押すだけで、プレイヤーキャラのニコはドアを開けて、中の運転手を引きずり出して、車に乗って、ドアを閉めます。

この時、プレイヤーはたしかに「車を強奪する」というゲーム行為はしましたが、その中の「ドアを開ける」「運転手を引きずり出す」みたいな細かい行為をプレイヤーがしたとは言えないでしょう。

さて、行為のシミュレーションは、必ずしもインタラクティブなフィクションとして機能しません。
と言うのは、必ずしもプレイヤーはフィクション世界上での動機によって行為するわけでは無いからです。例えば、車を強奪するのも、単にシナリオを進行させるために必要だからやるのかもしれません。
その場合は、プレイヤーはフィクション世界でなくゲームメカニクス世界のために行為してる事になります。ドラクエ5でキャラ性能だけ見てフローラと結婚するプレイヤーもインタラクティブなフィクションをやってるとは言えません。(でも性能的にはフローラだけどビアンカにも幸せになって欲しい…みたいなフィクション世界での都合とゲームメカニクス的な都合の間で悩むプレイヤーもいそうだ)

逆に、インタラクティブなフィクションが全て行為のシミュレーションであるとも限りません。
インタラクティブなフィクションではプレイヤーの選択によってフィクション世界で変化が起きますが、それだけなら別にゲームメカニクスが無くても成立するからです。

ところで、行為のシミュレーションでは、そのシミュレートの写実性によって、プレイヤー行為とフィクション世界の結びつきが成立します。

シミュレーションの写実性というのは、正確で情報量の多い形で対象をシミュレートする事で成立します。

とは言え、何でもシミュレートすればいいのかと言って、例えばRPGやFPSに便意のパラメータを持ち込んで時々トイレに行くハメになるようなシミュレーションを組み込まれても、イヤです。

つまり、リアルならいいってもんじゃなくて、プレイヤーがそのゲームに期待するものに対して正確で情報量の多い形でシミュレートする必要があるという事です。

それから、ゲームグラフィックスがリアルかどうかというのは、シミュレーションの写実性とは基本的に関係ありません。

とは言え、「電車でGO!」みたいなゲームだと、運転士による電車の運転をシミュレートしてるわけで、そうなると一人称視点でグラフィックスが描かれてる必要はあるだろう。みたいな事はあります。

終章 そして遊びの哲学へ

この本の構想について。

この本では、ゲームを遊ぶ目的は、そのゲームが遊びたいからという話をしました。(自己目的的)
というのは、ゲームを上手くプレイするのはセンスがあってカッコイイから(美的行為)です。

美的行為とか言い出したのは、ビデオゲームに限らず、ゲーム全般を”行為の芸術”として捉えてはどうかと思ったからです。

人間の活動には、見たり聴いたりするもの(インプット)と、自分がやったりするもの(アウトプット)の二種類があります。

素晴らしいものを見たり聴いたりする(インプット)のは美的経験と言えるかもしれません。
そして美的経験をもたらすようにデザインされたモノが芸術作品なのかもしれません。

とすれば、自分がやったりするもの(アウトプット)の方でも同じような事が言えるかもしれません。
素晴らしい行為、カッコイイ行為(美的行為)をもたらすようにデザインされたモノがゲームだと言えるかもしれません。

そのような行為のデザインは、本文で述べたように、目標を設定し、目標達成が可能な手段を作り、そしてそれについての信念を与えるために情報をコントロールする事で可能になります。

おわり

というわけで、「ビデオゲームの美学」のメモでした。

正直言って、私の読解力の問題で、何回読んでもなんだかよく分からない点が結構あったので、ちゃんとした要約として機能しないと思います。せいぜい個人的なメモ書きです。
あと、本には書いてない事を勝手に付け足したりしたところもあります。
この記事を読んだだけで済ませずに、かならず元の本も読んでください

さて、私がこの本を読んでみて、惹かれた点は、まず、この本は”ビデオゲームならではの特徴”を明らかにしようとしている点です。
何か企画があって、それを作品にしようと思った時に、そもそもそれはゲームとして作るべきなのか?マンガとして作った方がいいのでは?みたいな判断が必要になりますから、ゲームならではの特徴を知っておくことで正しい判断が下せるでしょう。

また、ゲームにはフィクション世界とゲームメカニクス世界の二つの世界が同時に存在している、的な考え方も目からウロコでした。
これだけで世の中のゲームについてあーだこーだ分析めいた事ができそうです。

例えば、マリオの緑キノコという記号は、フィクション世界的には”キノコ”を表していて、ゲームメカニクス的には”1UPアイテム”です。プレイヤーが緑キノコを取るのはフィクション世界上では”マリオがキノコを手に入れる”という行為をシミュレートしています。
それはいいんですが、「何でキノコを手に入れたらマリオが1機増えるんだ?」というフィクション世界上での行為とゲームメカニクス的な結果の繋がりは謎と言えば謎です。

それに対して、ロックマンでは、自分の頭の形をしたアイコン、つまり自分自身が1UPアイテムです。これはゲームメカニクス的には”1UPアイテム”ですが、フィクション世界上での何かを表しているとは思えません。(敵の拠点の中に何故かロックマンの予備のボディが置かれているとでもいうのか?)
まあこれなら「何でキノコを取ったら1UPなんだよ?」とか言われなくて済みます。「自分を取ったんだから1UPって見りゃ分かるだろ!」という事です。
ですからある意味キノコより直感的なのかもしれませんが、しかしロックマンで1UPを取る事はいかなるフィクション世界上での行為のシミュレートでもありません。これはプレイヤーとフィクション世界の結びつきを弱めます。
つまり、ゲームプレイヤーがロックマンになりきって同一化していたとして(そんななるか?)、1UPアイテムを取った時に、「1UPアイテムってなんだ?」とか思って急に没入感がシラケるかもしれません。

つまり、マリオのキノコとロックマンの1UPアイテムは一長一短と言えます。

ちなみにボンボンのロックマンの漫画では、1UPアイテムはそういうカプセル食品?という表現になっていて、これによりフィクション世界での行為のシミュレートを成立させています↓

ファミコンのロックマンはドット絵のゲームですから比較的抽象的な表現ですから、最近の3Dのゲームほど具体的な表現はされてないですから確かにこういう言い逃れは可能でしょう。

たとえば「ワンダと巨像」みたいなゲームだと、ゲームメカニクス的な分かりやすさよりもフィクション世界への没入が重視されるでしょうから、食べると握力が上がるアイテムは”トカゲのしっぽ”という事になります。これがもしアルファベットのP(パワーアップ)のアイコンがピカピカ点滅しながら回転しながら地面に置かれていたりしたら、フィクション世界が崩壊する事は目に見えています。

とまあ、こんな感じで、ゲームのフィクション世界とゲームメカニクス世界を分けて考える事で、ゲーム設計についてもそれっぽい事があーだこーだ言えて面白いです。