あの「ハーフリアル」の著者として有名なイェスパー・ユールが書いた「しかめっ面にさせるゲームは成功する」という本を読みました。

その本の最初に書かれてるエピソードで、ユールがメテオスで遊んだ時の話が出てきます。
ユールは一度もゲームオーバーにならずにメテオスをクリアしてしまったそうです。
それで「オレってスゲー!」と思うかと思いきや、ユールはキレ散らかします。
「私はゲームオーバーするのはイヤだが、ゲームオーバーしないのはもっと最低だ!!」との事。

つまり、一言でまとめると”ゲームはプレイヤーにチャレンジを与えて、ゲームオーバーさせて悔しい思いをさせてナンボでしょ!”みたいな話です。

しかし、私は必ずしもそうでもないゲームもあるよな…と思います。
ユールが簡単すぎてキレたメテオスを作ったのは桜井さんですが、桜井さんは星のカービィスーパーデラックスも作られてます。あのゲームもごく一部を除いて基本的にゲームオーバーにならずにサクサククリアできる難易度ですが、何回でも遊べるくらい楽しいです。
フリーホラーゲームでも、わざと失敗しない限りよっぽどじゃないとゲームオーバーにならないようなゲームもあったりします。

過去のブログ記事で、テレビゲームのゲーム性とは”失敗と成功があるチャレンジ”だという説を書いたりしました。
という事は、失敗の無いゲームは成功もないわけですから、チャレンジが無いという事で、ゲーム性がないゲームという事になるでしょうか。
しかし、ゲームってゲーム性が無いとマズいんでしたっけ?

自分の個人的な話になりますが、私は難しいゲームは好きではありません。
ですから、プレイヤースキルがバキバキに問われる格闘ゲームとか、音ゲーとか、シューティングゲームとかは全然やってません。

東方はかろうじて昔やってましたが、紅魔郷とか妖々夢はかろうじてノーマルクリア、地霊殿になるとノーマルさえクリアできないレベルです。

そんなですから、もし自分がゲームを作るとしても、それはプレイヤースキルがモノ言うゲームじゃない気がする…と思います。

世の中には、プレイヤースキルがモノ言うゲームの他にも、時間投資がモノ言うタイプのゲームもあります。
例えば、RPGは上手いとか下手とか関係なく、時間をかけてレベル上げて装備を整えさえすれば、誰でもクリアできたりします。

じゃあ私はRPGが好きなのか?と言うと、昔は好きな方でしたが、最近は戦闘を繰り返してレベル上げする作業が面倒でやりたくありません。

ここまでくると、「なんだぁ?てめぇ…お前は要するにゲーム自体が嫌いなだけだろ!!」とか言われてもやむを得ない感じになってきますが、たしかにほとんどのゲームは好みじゃないのかもしれませんが、たまに、ドハマりしてしまうゲームがあるんですよね。ストライクゾーンがクソ狭い…。

例えばアンダーテールもそうです。

アンダーテール(のPルート)は、戦闘を繰り返してレベル上げして強くなるゲームじゃないので、時間投資がモノ言うゲームではありません。多分ゲームオーバー無しでクリアできる人もいそうなくらいの難易度なので、プレイヤースキルがモノ言うチャレンジを持ったゲームって感じも薄いです。(Gルートになると色々と話が変わってくるけど)

ちなみに、ゲームの中には運がモノ言うタイプのゲーム(ギャンブル系)もありますが、もちろんアンダーテールはそれにも当てはまりません。

というわけで、アンダーテールはスキル、運、時間投資によるチャレンジの要素が薄いので、ゲーム性が優れているわけでは無いという話になるかもしれません。

では仮にアンダーテールのゲーム性が薄いとして、じゃあ私はアンダーテールの何を愛してるのか?

ゲーム性でないとすると、シナリオが優れているのでしょうか?
しかし、以前の記事にも書いた通り、アンダーテールには映画や小説的なシナリオというのはほとんどありません。

では、ゲーム性も無ければシナリオも無いテレビゲームって、じゃああとは何が残ってると言うのか?

私はそれは”体験”だと思ってます。
まあ、このブログでは以前から散々、「ゲームはデザインされた体験だ!」って連呼してますが。(「「つい」やってしまう体験のつくりかた」の受け売り)

しかし、体験って言ってもそれだけではふわっとしてて何なのかよく分からないかもしれません。
ちなみに、辞書を引くと体験とはすなわち経験と同じ意味で、経験というのは「実際に見たり、聞いたり、やったりする事」です。

それで、以前の記事では私はMatrix Awakensの超リアルな都市について、「たしかに都市のシミュレーションとしてはリアルだけど、都市と言うのは体験がデザインされた空間じゃないからゲーム的じゃない」的な話を書きました。
”体験がデザインされた空間”というのは、つまり誰かによって「これを見せてやろう!」とか、「これを聴かせてやろう!」とか、「これをやらせてやろう!」とかが仕込まれてる場所という事になりますが、都市はそうじゃないですよね。

じゃあ、現実世界で一番体験が仕込まれてる空間ってどこだっけ?

それは、遊園地の”お化け屋敷”です。ここで言うお化け屋敷というのは、必ずしもホラーなものに限らず、ディズニーランドとかのテーマライドみたいなたのしいヤツも含みます。

お化け屋敷を設計する人は、お客さんを驚かす事だけをひたすら考えてデザインしています。
ここまで体験に特化してデザインされてる場所と言うのは他ではそうそうありません。

ディズニーランドのテーマライドは連日メチャメチャ賑わっているらしく、つまりお化け屋敷的な体験にお金を払う人は一杯いるという事です。

そして、お化け屋敷にはゲームオーバーはありません。という事は失敗が無いという事で、チャレンジもありません。
だからと言ってつまらないと言って怒る人はいません。
何故なら、お化け屋敷はゲームでは無いからです。ディズニーのテーマライドとかは、純粋にフィクション世界の再現(シミュレーション)であると言えるでしょう。

ユールは、「ハーフリアル」において、テレビゲームはルール(ゲームメカニクス)とフィクション世界が重ね合わせになっている事を指摘しています。
ユールはゲームオーバーしないでクリアできるような、ノーチャレンジなゲームにはキレますが、実際問題、アンダーテールのようにチャレンジが弱めのゲームや、ほぼチャレンジが存在しないゲームは存在します。

チャレンジが無いゲームは、ルール(ゲームメカニクス)が無いゲームであるとも言えるでしょう。
ルールとフィクションの重ね合わせであったはずのゲームから、ルールが取っ払われると、あとには純粋なフィクション世界のシミュレーション(体験)だけが残ります。
そう、つまりチャレンジが無いゲームは、体験だけが残るという事で、それはお化け屋敷と同じなのです。

というわけで、結局のところ何なのかと言うと、ユールはゲームは失敗して悔しい思いしてナンボと言ってますが、私に言わせれば、チャレンジ要素が薄かったりほぼ無かったりするゲームもあって、それはお化け屋敷的な体験だけが残っているゲームだ!という事です。
そして、どうやら私が好きなのもそのようなお化け屋敷的体験のゲームらしい…という事。

考えてみると、アンダーテールは極めてお化け屋敷的なゲームだという気がしませんか?
登場するキャラクターだって、みんなモンスターです。全然怖くはないですが。

ちなみに私はお化け屋敷とかホラーゲームは怖いので苦手ですからアンダーテールくらいで丁度いいです。

他のゲームについても考えてみると、らせんの宿とか殺戮の天使も相当お化け屋敷的だった気がします。
というか、殺戮の天使は実際にお化け屋敷化されてます

殺戮の天使はアニメ化もされてますが、「こういうゲームをアニメ化しても、お化け屋敷の実況放送みたくなるんじゃね?」と思ったら、ちょっと観た感じは実際にそんな感じになってるようです。
ゲームって基本的にそのまま映像化するのは難しそうです。小説的シナリオじゃなくて体験ですからね。バイオハザードの映画とかもゲームから思いっきり筋書きが変わってますが、やむなしだと思います。

さて、巷で”ウォーキングシミュレータ”というジャンルで呼ばれてるゲームがありますが、あれはFPSからルール(ゲームメカニクス)を取っ払って、歩くしかできなくなったからもはやウォーキングのシミュレータですよね…みたいな自虐的なネーミングですが、単に歩くだけじゃなくて、あれも厳密には体験のシミュレータと言えると思います。
Dear Estherも、歩くのが面白いというより、島を道に沿って歩いていって行く先々で与えられる素晴らしい景色などの体験に感動するのです。

ですから、ウォーキングシミュレータを作る時は、単に歩けりゃいいってもんじゃなくて、お化け屋敷を作ってる意識で制作しないと面白くならないでしょう。

そういえば、環境に情報を仕込んで、プレイヤーが能動的に環境を調べてシナリオを理解する手法を環境ストーリーテリングと言いますが、この手法も元々は遊園地アトラクションの建築設計から来ているらしいです。

というわけで、最後に話をまとめると、まず初めにユールの「ゲームにはチャレンジがあって、プレイヤーを悔しがらせてナンボ」みたいな言い分があり、私はそうでもない気がすると思いました。
私は個人的にはプレイヤースキル上達を要求する難しいチャレンジのゲームは好きでなく、さらに時間投資を要求する作業ゲーも好きでなく、じゃあ何なんだ?と言うと、ゲームにお化け屋敷的な体験を求めてるらしいと分かりました。

というわけで、自分が作るゲームもそんな感じでお化け屋敷的なフィクション世界のシミュレータを意識して作るといいかもしれないですね。

チャレンジが無くて体験だけのお化け屋敷が人気なんだから、ルールが無くて体験だけのゲームだってあり得る!」という主張はもしかして結構新規性あるんじゃないでしょうか。

以前の記事で、旅ができるのはテレビゲームならではの特徴だ!と書きましたが、体験もテレビゲームならではの特徴かもしれません。
チェスやボードゲームではフィクションに”見立て”る要素はあっても、フィクション世界を体験する要素は無さそうです。

チェスや囲碁なんかは、ほぼルールだけがあって、フィクション世界の要素はありません。
それで、世間のゲームデザインを扱ってる書籍は、ボードゲームの延長上で書かれてたりして、ルールの話に偏っていてフィクションの話があまり扱われてなかったりしがちな気がします。

それから、「そんなにお化け屋敷的なゲームが好きならゲームじゃなくて実際にお化け屋敷(あるいはディズニーランド)に行けばいいんだからゲームにする意味ないんじゃね?」という意見もあるかもしれません。
しかし、私はゲームならではのアドバンテージがあると思います。
なんというか、現実世界の遊園地のお化け屋敷は、世界は現実であるものの、お化けは紛い物です。しかし、ゲームの場合は、そもそもゲーム自体が現実では無いものの、そのゲーム世界に出てくるお化けはゲームの中では本物…みたいな逆説的な理屈があるような気がします。

現実のお化け屋敷と体験のゲームを比較してみると、現実のお化け屋敷に1人で行く奴はほぼいないのに対して、ホラーゲームやウォーキングシミュレータは基本的に一人で遊ぶモノが多いという違いがありますね。

しかし、それは今までマルチプレイのホラーゲームの作り方が分からなかっただけかもしれなくて、最近はPHASMOPHOBIAのように、マルチプレイホラーゲームが流行り始めている点にも要注目でしょう。

私の今後の展望としては、お化け屋敷的な体験のゲームを作るために、実際のお化け屋敷やディズニーのライドをリサーチする必要がありそうだなという気がしてます。
一人でディズニーランドに行く度胸は無いんですが、割とYoutubeでライドのプレイ動画?が沢山上がってるんですよね。

今思うと、キングダムハーツってメッチャ遊園地のアトラクション的だった気がします。ステージの書き割り感とかも含めて。