最近、ある考え方について考えている。
この考え方に”ゲーム思考”という名前を付けてみた。

社会ゲームとは何か?

ゲーム思考とは簡単に言うと、「人間がふつう、絶対的現実だと思ってるモノは、実はその大部分が”社会ゲーム”であり相対的現実に過ぎない」という考え方である。
私はここで「ゲーム思考こそが絶対的現実であり、社会ゲームはすべてまやかしに過ぎない!」とまで主張するつもりはなく、あくまで「そういう捉え方もでき得るし、ゲーム思考によるメリット、デメリットがある」程度の話をするつもりに過ぎない。これは私の持論を述べてるとかではなく、あくまで一つの考え方を提示してるだけに過ぎない。私自身がそう思ってるわけではない。

ゲーム思考は私の思い付きの考えに過ぎないが、今ググってみたら、哲学の相対主義という考え方に似てるかもしれない。(というか多分逆で、これらの既存の考え方を脳内で適当につまみ食い、リミックスして思い付いたんだろう)相対主義では「全ては相対的なものにすぎない。絶対的に正しいものなんて存在しない」という考え方のようだ。それ以上の事はややこしくてよく分からない。

相対主義 – Wikipedia

我々にとって、絶対的な現実とは何だろう?と考えると、まず”ご飯を食べる事”、”寝る事”、”ウンコする事”は絶対的に現実だと思う。何故なら、たとえ牢屋に入れられた囚人だろうとこれらはやっている。これらの行為を禁止されたら人間は死んでしまう。”死”もまた絶対的な現実だろう。

一方で、それら以外のほとんどすべて、例えば学校とか恋愛とかファッションとか諸々は、必ずしもやらなければ死ぬというわけではないという意味で、絶対的な現実ではないかもしれない。とは言え、じゃあ”ウソ”なんですか?という事でもなく、それらは相対的な現実と言えるだろう。
例えば、私がマリオのビデオゲームをクリアしたとする。ビデオゲームの世界は現実ではなくフィクションに過ぎないのは間違いない。だが、私がマリオのゲームのチャレンジを達成したという事は事実であり、相対的な現実だろう。

絶対的現実、食事、睡眠、排泄は、別に誰かがそうしろとルールを定めたわけでもないにもかかわらず、誰もがそうせざるを得ないものだが、”社会ゲーム”は人間が勝手に作ったお約束に過ぎない。

我々は街に住んでたりするが、街というものは当たり前だが全て人間が勝手に作った人工物である。じゃあ畑や森ばっかりの田舎は?というと、実際には畑や森も人間による加工がされまくっていて、自然そのものではない。
同様に、目に見えない社会的な概念なんかもほとんどは人間が勝手に作ったお約束、社会ゲームだ。

街に設置してある物理的な壁は、いくら人間が勝手に作った人工物とは言え、すり抜ける事ができないからまあ絶対的な現実ではあるが、例えば”立ち入り禁止”の札が立ててあるだけの場合、別に入ろうと思えば入れてしまう。”立ち入り禁止”というのは誰かが勝手に作ったルールだから、社会ゲームの一つと言える。

つまり、立ち入り禁止の札が絶対的現実だと思ってる人は、それが物理的な壁と同じかのように、「すり抜けられるかな?」なんてそもそも考えない。しかし、社会ゲームだと気付いてる人はすり抜けようと思えばすり抜けられると考えている。(とは言え、立ち入り禁止の場所に入るのはやめてください)

(↑Sonnet3.5に描かせた絶対的現実と社会ゲームの図)

ちなみに、セックスして子供を作るという繁殖行為は、はたして絶対的現実なのか?繁殖は人間が勝手に作ったお約束”ではない”。当然ながら。
とは言え、繁殖行為しなかった人間が死ぬわけでもない。だからといって、誰も繁殖しなかったら人類は滅亡する。だから、一人の個体としての人間にとっては繁殖行為は必ずしも絶対的現実ではないが、種というスケールで捉えると絶対的現実と言えるかもしれない。
繁殖行為は人類全体で協力して負担しあうべき絶対的現実だが、実際には繁殖しない人間は、子作りや子育ての負荷を繁殖してる人間に押し付けてフリーライドしてるとも言えるかもしれない。そういう押し付け合いは、やはりゲーム的かもしれない。

社会ゲームには、強度的に強い社会ゲームと弱い社会ゲームが存在する。まず、強い権威が作ったルールは強い社会ゲームである。法律は人間が勝手に作ったお約束だが、国家という強い権威によって定められていて、強い社会ゲームである。さっきは立ち入り禁止の札の例を出したが、法律は無視しようと思えば無視できるのだが、国家は法律を破った犯罪者を死刑にする事もできる。死という絶対的現実をもたらし得る法律という社会ゲームは無視するのが困難である。
それから、プレイヤー数が多い社会ゲームは強い社会ゲームと言える。たとえばオリンピックは世界中でみんなから注目されてるので強いゲームだろう。「あんなもん走ったり玉投げたりしてるだけだろ」なんて言ったところで腐してるそいつ以外はオリンピックに夢中なのだから、オリンピックの強さは揺るがない。
あと、歴史が長い社会ゲームは強いだろう。大昔からやってる社会ゲームは人間の本能に根差したものである場合が多い。例えばファッションというのは、別に着飾らなくても死にはしないという意味で絶対的現実ではないが、しかし縄文人でさえアクセサリとかタトゥーしてたらしいので、ファッションという社会ゲームは永遠に廃れないかもしれない。(でも今はタトゥーしてると銭湯に入れないし、歴史があるから強い社会ゲームだと思ってたら案外サッと駆逐されるケースもあると言えるかも)

一方、ビデオゲームというのはかなり歴史の浅いコンテンツであり、ゲームが上手くても誰からも褒められないし、相当弱い社会ゲームだったと言えそうだが、最近はオリンピックでeスポーツ大会をやるとかいう話で、かなり世間的に承認された強い社会ゲームにいつの間にかなってきてそうだ。

社会ゲームには、価値判断が伴う。つまり良いプレイ、悪いプレイが存在して、良いプレイをするプレイヤーは勝者となり、悪いプレイをするプレイヤーは敗者となる。価値判断が伴わず、勝ち負けが存在しない場合、それは社会ゲームではなく”遊び”と呼ぶべきものだろう。
例えば、子供が一人で人形でブンドドして遊ぶのはゲームではなく遊びだろう。子供は最初は一人で遊びをしたりするが、成長するにつれて勝ち負けの伴う社会ゲームに興味がシフトしてくような気がする。
社会ゲームには価値判断が必要にも拘らず、我々は必ずしもあらゆる社会ゲームに対して正しくジャッジできるほどの見る目を持っているとは限らない。そういう場合、評価のショートカットが行われがちである。つまり、自分は何が良くて何が悪いのかよく分からんが、専門家がいいって言ってるからいいもんなんだろう。などと考える場合、それは評価を他人に丸投げしてショートカットしてる。
例えば、タイタニックの映画において、キャル(ヒロインであるローズの婚約者)はローズが買ったピカソの絵を「ピカソなんて聞いた事ない。どうせしょーもない」と言ってコケにする。ピカソは今では知らない人はいない巨匠なので、キャルがマヌケに見えて笑ってしまうシーンだ。ここでキャルは「有名じゃないからダメ」として評価のショートカットを行っている。ただし、笑ってる観客の方だって、ピカソの凄さを理解しないで子供のラクガキと見分けが付いてないとしたら、単にピカソが有名だからスゴイんだと評価のショートカットをしてるだけで、キャルと同じ穴の狢である。そして全然無名の頃のピカソの絵のすごさを見抜いたローズは自力の評価ができていてすごいわけだ。

社会的ゲームに対する態度を軸として考えた場合、世の中の人間は3種類に分かれるかもしれない。
まず、”社会的ゲームと絶対的現実の見分けが付いていない”タイプ、このタイプの人は全てをゲームじゃなくてマジ(リアル)だと捉えてしまってるわけだから、マジメ人間と言えるかもしれない。このタイプをここではマジメ型と呼ぶことにする。いわゆる普通の人、健常者と呼ばれる人たちかもしれない。
次に、”社会的ゲームのレイヤーに気付いてるが疑問を抱かない”タイプ、このタイプの人は社会的ゲームに気付いている、あるいは意識的には気付いてなくても無意識的に気付いているが、ゲームだと割り切ってプレイしてる。このタイプの人はいわゆる世渡りが上手い人間かもしれない。このタイプをここでは世渡り型と呼ぶことにする。
最後に、”社会的ゲームのレイヤーに気付いてて、疑問を抱く”タイプ。このタイプの人は人生が生きづらいかもしれない。というか、いわゆる社会不適合者がこれに該当するかもしれない。ここでは不適合型と呼ぶことにする。

例えば、「勉強なんか将来何の役に立つんですか?」などと先生に訊いてしまう子供は、マジメ型かもしれない。というのは、勉強が将来自分の役に立つマジなものだと真に受けてるからこそ、このような疑問が出てくるわけで。
一方で世渡り型の子供は、勉強なんてものはゲームだと最初から気付いてるからそんな疑問はそもそも抱かないし、勉強がゲームに過ぎなくてもそれで結構。俺はゲームに勝つ。などと考えてるかもしれない。不適合型の子供は、勉強なんてものはゲームに過ぎなくて、くだらないし意味無いから俺は絶対勉強しない!などと考えるかもしれない。かなり社会不適合な感じする。

「勉強なんか将来何の役に立つんですか?」と訊かれた先生は答えに窮しがちである。何でハッキリと「勉強なんて何の役にも立たねーよ。こんなもんタダのゲームだよ。」と言ってやらねえんだ?
大人のこのような態度は”サンタクロースの存在は子供に信じさせなければならない”みたいな話と似ている。そうする事で子供に何のメリットがあるんだろう。私の友達に、中学生になってもサンタを信じてるヤツがいた。サンタを信じてた子供達はいつかそのウソに気付いて、信じてたものがウソで、騙されてた事に気付き、傷付くだろう。大人に対して不信感さえ芽生えてもおかしくないと思う。

社会ゲームに参加するプレイヤーは、それが社会ゲームであるという事実を隠そうとする。社会ゲームがリアルである事というにしたがる。教師というのは子供に勉強を教える仕事である。勉強がリアルだと思われてるからこそ教師は尊敬される。もしも教師が「勉強なんてただのゲームだよ」と言ってしまったら、教師は単なるゲームの攻略法を教えるヤカラという事になってしまい、権威が失墜してしまう。自分がガッツリプレイしてる社会ゲームだからこそ社会ゲームだと認められない。

社会ゲームを絶対的現実だと思い込んでる人は、それが社会的ゲームである事を突き付けられる事を嫌がる。例えばファッションというのは各々が着たいような服を着ればいいだけのものに過ぎないハズだが、往々にしてファッションに無頓着な人間を攻撃する人がいる。何故なのか?というと、ファッションが絶対的な現実だと思い込んでいるからである。だからファッションに凝る事は義務だと思っている。しかしまったくファッションに無頓着な人間がいたら、自分の絶対的現実そのものが脅かされる事態になってしまう。現実が相対化される事が恐ろしいのである。(ただしファッションは元々社会ゲームである)着飾ってる自分がアホみたいになってしまうから攻撃を余儀なくされる。
「裸の王様」の話で「王様は裸やんけ!」と指摘した子供は、多分本当だったら「なんて事言うんや!」ってなって周りの人にボコボコにされてると思う。これは現代で言えば、ある種のファッションショーなんかではモデルさんは乳丸出しの服着てたりするが、みんな「まあ、そういうもんだよね」みたいな顔してすましているが、あの現場に「えっ!?ちょ…待って!乳出てるよ!みんな!!ヤバいって!おっぱい出てるって!!」とか騒ぐ人がいたらつまみ出されてしまうだろう。

タイタニックの映画で主人公のジャックは上流階級のディナーに招待され、そこで一席ぶち上げて、金が無くても幸せだぜ!みたいな主張をする。金持ちの社会ゲームこそ絶対的現実だと思っていたキャルは、それを相対化して脅かそうとしてくるジャックに憎しみを抱く。

最近、選挙などで制度のハックが問題になったりしてる。例えば、選挙というのは立候補するだけで数百万円の供託金が取られてしまうが、掲載費用を取って選挙ポスターに広告を掲載しちゃえば選挙ポスターの掲載費はタダなわけだから供託金がペイできるくらい儲かる…みたいな事だ。よくもまあ考えたな…と感心してしまうが、「法律の穴をハックしたところで、法律がキビしくなって社会が窮屈になるだけだ!」と顰蹙を買っている面もある。
ハックという行為はゲーム思考と親和性が高いと思う。何かをハックしようと思ったら、まずそれがゲームである事に気付く必要があるからだ。ただし、ハックは大っぴらにやらない方がいいかもしれない。大っぴらなハックは、マジメ型の人達が絶対的現実だと思っていたものが実はゲームでしかない事を突き付ける事でもある。サンタを信じてる人に「サンタなんていないよ」と突き付けたら怒るかもしれない。また、マジメに生きてる人達は、ハックでズルして自分だけトクしてる人を見ると、自分達がバカみたいに見えてしまうから、嫌がるだろう。そして、「お前が大っぴらにハックしたせいで法律の穴が塞がれて俺がハックできなくなるじゃねえか!」と怒る人もいるだろう。

若者はどちらかというとハックに肯定的だという説もある。まず若者は子供の頃からゲームに馴染んでるから、チートやハックの概念にも馴染んでる。そして、今は地道に努力してれば報われるような時代ではない。それよりも世の中をハックして自分だけはズルして勝ってやるぜ!みたいな価値観が生まれるのかもしれない。

異世界転生で転生する異世界はしばしばナーロッパであり、もっと言えばドラクエの世界であり、つまりゲームの世界である。
ポイントは、主人公だけは自分が元居た世界こそ絶対的現実世界であって、異世界はゲームに過ぎないと知っているのに対して、異世界の住人は自分達がいる世界がゲームだと気付いておらず、絶対的現実だと思い込んでるという点である。主人公だけが異世界を相対化できてるという優越があり、だからこそチート能力を保有する事を正当化できるわけだ。
この話は、世界の全てが絶対的現実だと思い込んでる人と、世界のほとんどは社会ゲームに過ぎないと気付いてる人の違いに近い。

いまだに、世の中では「普通になりたい、目立ちたくない」みたいな風潮が蔓延してるが、ハッキリ言って今は「普通にしてたら普通に幸せになれる」なんて時代ではない。普通にしてたら普通にダメな人生になる…かもしれない。というのは日本の経済はずっと停滞ないし下降しており、平均ラインが下降してるんだから平均を狙ったら自分の親よりもしょぼい暮らしになる可能性が高いだろう。
親世代、あるいはじいちゃんばあちゃん世代では、ビックリするくらい凄まじい経済成長が起きていた時代なわけで、下手に変わった事に手を出すよりも、フツーにしてれば全員で勝ててた時代だった。
例えば1974年のゆうちょの定期預金の利子はなんと年率8%もあった!親世代が投資に疎くてもまあしょうがないだろう。預金してるだけで資産が爆増する時代を生きていたんだから、リスクを取ってまで株とか買う意味が無かっただろう。だが、今では定期預金の利子は0.025%、当時の320分の1のゴミみたいな利子しかつかない。預金なんかしてても死に金である。「株とかこわい~」とか抜かしてないでさっさとNISAについて調べてガンガン投資すべきかもしれない。
子供は親の常識感覚に引きずられがちだが、親がイージーモードの世界を生きてたとしたら今の若者はハードモードの世界を生きてるくらい、親世代の感覚は現代では全然通用しない事を意識すべきである。かつては経済成長していたが、今はガンガン経済衰退している。親が子供に期待するハードル、「フツーに生きてたらこれくらいできるでしょ?」とか言ってきても、いやあなた方の時代とはもう丸っきり違うんだよと返してあげるべきだが、多分そう言ったところで理解してもらえない可能性が高い。

「普通でいたい、目立ちたくない」みたいな価値観は、大体学校に行ってる間に染み付くもんだろう。学校では30人のクラスという閉鎖的な環境の中にある意味数年間閉じ込められる。こんな環境の中では、出る杭は打たれて目立つ奴は潰されがちである。

深津さんは、他人を潰すよりも自分の成長にリソースを注ぎ込んだ方がコスパがいいと言っている。

しかし、その話は全人類を相手にしてるゲームでの話であって、数十人とか数人で少人数プレイしてるゲームでは、自分が成長するよりも他人を蹴落とす方が簡単にゲームに勝てる状況はしばしば発生する。だから学校のクラスのような閉鎖的環境ではみんな普通でいたがる。
学校を卒業したらいきなり全人類相手の超大規模ゲームに移行するんだから、学校の時とは違うゲームプレイが必要な事に気付いてサッと切り替えて欲しいものである。とは言え、結局また職場で閉鎖的な潰し合いのゲームが始まる可能性も割とありがちだ。

ゲーム思考では、プレイするゲームの中で「普通でいよう、中くらいの順位を狙おう…」なんて考えは考慮しない。基本、自分が一番になる、勝利する事が前提だ。

Youtuberのゆたぽんは、学校行かないでユーチューバーやってて、一見するとまったく普通じゃなくて目立ちまくってて真面目に学校も行かないでいるのにどうして人生サクセスしてってるんだろう?まず学校に行かない事で閉鎖的ゲームの潰し合いに巻き込まれないで済んでるし、Youtubeというグローバルなゲームをやってれば、自分が成長する事に注力するしかない事にすぐ気付ける。

ところで普通の幸せって何だろう?例えば”サザエさん”の磯野家や、”ドラえもん”の野比家、”クレヨンしんちゃん”の野原家みたいな暮らしが普通の暮らしだよね想像する人も多いかもしれない。
だが、サザエさんやドラえもんは昭和の話であり、クレヨンしんちゃんは平成の話であり、とにかく今とはまったく話が違う。今の時代は普通の人はあんな暮らしはできないだろう。あれは令和のエリートとか超エリートの暮らしでしかない。つまり、ゲームに勝利した人達である。

今の若者は、高齢者の奴隷として扱われてる側面がある。例えば、年金は今の高齢者はもらい得だが、今の若者は払い損であり、単に若者の金を高齢者に貢いでる構造である。こんな明らかなクソゲーなのに、年金というのはほぼ強制的に払わされて、絶対に負けるゲームに強制参加させられるハメになっている。

つまり若者は普通にしてたら高齢者にチューチュー吸われてる状況なのだから、普通でいたらダメで、ゲームに勝たねばならないかもしれない。

人間の美醜も社会ゲームかもしれない。どういう顔が美人でどういうのがそうでないのか、判断基準はかなり強固で揺るがないものだと思われていたが、今思うといわゆるポリコレは美醜の社会ゲームをかなり相対化したよな…。昔のハリウッド映画はとにかくパツキンのナイスバディのチャンネーが出てたような気がするが、最近はなんちゅうか多様な女優さんとかがバリバリ出演している感じだ。その甲斐あって美醜の基準というのはかなり相対化されて、誰が美しいとかそうでないとか何とも言えない…みたいな感じになって来てるかもしれない。
永遠に覆らないものかのように思ってた基準でも覆せるんだな…と感心するが、とは言え原作破壊しちゃってるような無理がある映画のキャスティングなんかを見るとやり過ぎと思う。
考えてみると、日本人の考える美醜の基準もどんどん変わっているかもしれない。浮世絵や日本人形の顔は今見てもまるでピンと来ないが、当時はああいう感じが美人という事だったのかもしれない。

所詮社会ゲームなんてゲームに過ぎず、勝ち負けの価値判断基準も移ろいやすいものなのかもしれない。

とは言え、価値判断について完全な相対化がなされて、もはや誰も美人とかそうじゃないとか言えなくなる世界が本当に来るかと言うと、難しい気がする。というのは、何らかの一つの軸に沿って良いとか悪いとか判断してしまうのは生まれた時から人間の脳にハードウェアレベルでASICのように回路として実装されちゃってるシステム1の領域のような気がする。一方で、”全ては相対的なものにすぎない。絶対的判断なんてできない”なんてアイデアは、後天的に教育で後付けされた貧弱なソフトウェアに過ぎないシステム2の領域な気がする。つまり、理性による相対的判断が本能による絶対的判断を完全に抑え込むのは難しそうだろうという事だ。

ゲーム思考とは何か?

社会ゲームがどんなものかが大体分かったところで、次はゲーム思考とはどのような物なのかを見ていこう。

ゲーム思考では、自分や他人がやってる事で、絶対的現実(やんなきゃ死ぬ事)以外の事は全てゲームとして考えてみる事が出来る。

ゲームとして考えるとは何か?というと、そのゲームの目標、賞品、価値判断が何なのかについて考えるという事である。目標とは、それを達成したらゲームクリアになる達成条件である。賞品は、目標達成で得られるものである。金だったりするし、栄誉、感動、快感とかかもしれない。価値判断とは、そのゲームで何が良くて何が悪いのかという基準である。

例えば卓球部に所属してる学生なら、その人にとって卓球部とはどういうゲームだろうか?ゲームの目標は県大会に出場する事かもしれない。社会ゲームは基本的に人間同士で勝敗を伴うものなので、目標を達成するためには他人に勝利することが必要となる。卓球の大会には5~6人しか出場できない。他の部活メンバーを蹴落として勝利してメンバーに選ばれなきゃいけない。次に、大会出場と言う目標を達成して得られる商品は何だろう?無論、金ではない。まあ栄誉かな。自分の栄誉だとしておこう。価値判断については、卓球は元々ゲームだから、試合に勝てば良くて、負ければ悪いだけである。

次はパクツイばかりしてるツイッタラーについて考えてみよう。マジメ型の人だと「パクツイは悪!是非も無し!」と言って片付けてしまうかもしれないが、ゲーム思考では「パクツイマンはどういうゲームをやってるんだ?」と考える。まずパクツイの目標は、バズる事だろう。賞品は、承認欲求が満たされる事だろう。価値判断は、ツイッターではとにかくバズッてる奴が偉い(と考える人もいる)。
そうして考えると、たしかにウケてるツイートをパクッてツイートするだけでワンチャンバズれるなら、何も考えないでコスパよく承認欲求を稼げて、目標達成のための効率が良い手段かもしれないと分かってくる。何しろパクツイしたところで逮捕されるわけでもない(多分)
というわけで、非ゲーム思考では「パクツイは悪い!」と判断した時点で思考が止まってしまっていて、それ以上深まらないのに対して、ゲーム思考ではパクツイについて客観的に思考を深める事が出来ている。短絡的な善悪の判断から解放されてる点がポイントである。パクツイを肯定するわけじゃないが、「この人は一体どういうゲームをやってるんだろう?」ととりあえず考えてみるのがゲーム思考である。どんな行動であれ、本人にとっては何らかのゲームとして成立してるはずだからだ。ただ単に「悪い事するの大好き!もっと悪い事してやるぞ!」みたいな幼児アニメの悪役みたいな思考の人間はそういない。

今度は推し活について考えてみる。すいません、私は推し活してないし、あんまよく分かってないのだが、推し活というのは推している相手に金を貢ぐ活動らしい。このような活動は、元々はキャバクラやホストクラブで自分が贔屓にしてるキャバ嬢やホストを店の売り上げトップにするために金を入れまくる文化がルーツだろう。こういうのは金が有り余っててしゃーない特殊なお客の特殊な遊びであるはずだが、最近は推し活とかいって一般的に広がってきていて、どうかと思う。
ホストや嬢は、ライバルと売り上げトップを競い合うゲームをやっている。それはいいとして、貢ぐ側は誰が一番推しに金を投げられるかを競うゲームをやっている。一番金を投げたファンが一番推しを愛してるファンだ!みたいな事になってるようだ。
推し活という社会ゲームの目標は、自分が最高金額を貢ぐ事だろう。その目標を達成した時に得られる報酬はなんなのか?”推し”が自分と結婚してくれるのだろうか?いや、そうではない。ハッキリ言って賞品は何も無い。賞品が無いゲームをプレイして金と時間を投資し続けるというのは、ゲーム思考的にはあまり健全な行動ではないと考える。まあビデオゲームなんかも賞品は普通無いわけだが、それにしても推し活ではかける金額が大きくなりすぎると問題になってくる。
「人間には利他の精神だってあるだろ!」と思うかもしれないが、推し活は一体、利他的精神の産物なんだろうか?本当は性欲や下心があってやってるのかもしれないが、そんなんじゃないと自分を騙しているだけなのかもしれない。

こういう話で思い出すのはまどマギの美樹さやかさんの話である。さやかさんは上条君という男子を推していた。さやかさんは上条君を助ける(推す)ために魔法少女になる契約をして命まで支払った。さやかさんは必ずしも利他的精神でそうしたわけじゃなく、そんだけ支払えば自分が上条君の彼女になれるという下心が無意識的にあったのだが、そんなんじゃないと自分を騙した。結果、上条君はさやかさんに何も返してはくれず、他の女と付き合い始めた。
さやかさんは自分の本当の気持ち(下心)に向き合わず、歪んだゲームをプレイしてしまった結果、全てを失った。電車の中のホストのショウさんの会話にさやかさんが噛みついたのは、ホストに貢いでる嬢の話が自分の境遇と完全に一致やんと気付いてしまったからだろう。
社会ゲームの目標、賞品、価値判断について考えて、明らかにおかしな点がある場合、それは歪んだ構造の社会ゲームである可能性が高い。歪んだ社会ゲームからは何も得られない可能性がある。できればプレイしない方がいいかもしれない。

ゲーム思考では人間の利他的精神というものはあんま考慮しない。もちろん、人間が時々利他的行動をとる事はたしかだ。例えば戦争中、陣地に投げ込まれた手りゅう弾で味方が死なないようにとっさに自分が手りゅう弾に覆いかぶさった英雄の話なんか良く聞く。
人間がとっさに自己犠牲的行動を取るのは、そういう本能があるんだと思うが、果たしてじっくり時間をかけてシステム2で考えられる状況でも利他的精神が働くのかどうかは分からない面がある。

この前見かけたツイートでこんな話があった。被災地に無償で物資を届けて配る活動をしていた人がいたが、物資を受け取る被災者たちは、最初は感謝してくれてたものの、段々とそれが当たり前になってきて、やがては「あれはねえの?次は持って来いよ」とか言ってつけ上がり始めてきてうんざりした…みたいな話である。
この時、この社会ゲームのプレイヤーは、明らかに無私の奉仕の精神なんかではなく、被災者が涙を流してひれ伏して自分に感謝してくれるだろう…という賞品を期待してゲームをプレイしていたことが明らかになっているわけだ。
それが良いとか悪いとか言う話ではないが、ゲームに投下するリソースと報酬が見合わないと分かれば、人はそのゲームをプレイするのはやめてしまう。

誰も同じ社会ゲームをプレイしていない

話がややこしくなってしまうが、我々は誰一人として完全に同じ社会ゲームをプレイしているわけではない。重複してる部分が多いとしても、完全に同じではない。

まず前提条件が人によって異なる。例えば一番金持ちになるゲームなら、生まれた時から実家が太くて金持ちな人と、家が貧乏な人では全然違うゲームになる。

だから、社会ゲームについて他人と論争しても、噛み合わないケースが多い。恋愛について他人に「何でもっとこうしねえの?」とか言ったところで、同じ恋愛という社会ゲームでも、自分と相手では中身は全く違うゲームだったりするからだ。

また、ゲームのタイムスケールの違いも存在する。例えばドロボウする人について、逮捕されて刑務所に入れられるのに、どうしてドロボウなんかするんだ?と一見するとドロボウは不合理なゲームに見えるかもしれない。だが、当のドロボウにとってはとにかくこの瞬間100万円が必要で、ものすごく短いタイムスケールのゲームをプレイしていたのかもしれない。例えばこのままだと死んでしまう病気の妹の手術代がどうしても必要だったとかかもしれない。
ゲームのタイムスケールの捉え方の違いによってゲームのプレイングは異なってくる。短期的に考えるとトクするゲームプレイでも、長期的には損しないか考えてみた方がいいかもしれない。例えば他人の描いたイラストを自分が描いたと装って転載する行為は、短期的には人気が得られるかもしれないが、長期的にはメッチャ怒られるだろう。
じゃあどういうタイムスケールで考えるのが適切なのか?というと難しいが、少なくとも自分が死んだ後の事まで考えてゲームプレイしてる人は少ないだろう。

自分が勝てる社会ゲームを探そう

ゲーム思考とは、世の中の大抵のものは絶対的現実ではなく、社会ゲームに過ぎない…という考え方だが、だからと言って私は、「全部ゲームに過ぎないんだから、全部意味無いから何もやんなくていいんだよ」などと言うつもりはない
根性論みたいになってしまうが、むしろ私は「社会ゲームに勝とう!」と言いたい。

「どうしてゲームに勝たなきゃいけないんですか?別に勝たなくても死なないでしょ?」と思うかもしれない。たしかに、ゲームに勝利する事は、そうしなければ死ぬような絶対的現実ではない。にもかかわらず、我々は何らかの社会ゲームに勝利しなければならない気がする。これは別に個人的な実感があるような話ではないんだが、ただそんな気がするだけである。
逆に、衣食住さえ与えられて死ななきゃそれでいいんだとしたら、刑務所の囚人にだってしっかり衣食住が与えられる。じゃあ刑務所に入れられても平気か?というとそうでない。何故だろうか?恐らく、社会ゲームへの参加権が奪われるからかもしれない。

「そんな気がするだけでは困るよ」というのなら、例えばニーチェ哲学には”力への意思”という概念がある。以下、wikipediaから引用する。

力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである。本人の著作では、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」と表現される思想である。

力への意志 – Wikipedia

つまり、人間はゲームに勝つために生まれてくる…というような話である。ニーチェが言ってるんだからまあそうなんだろう。
そもそも、どうして世の中はこんなむやみやたらに社会ゲームに溢れているんだろう?私が思うに、それはあらゆる人が自分が勝利できるゲームを探したり生み出したりしてきた歴史の痕跡かもしれない。

あらゆるゲームから逃げたり、あらゆるゲームで敗北した敗北者はどうなるのか?別にそれで死ぬわけではないが、しかし精神的に死ぬ…そんな気がする。

ところで「ゲームに勝とう!」というのは、なにも「ゲームから逃げるな!」とか「全てのゲームに勝て!」と言ってるのではない。むしろ、「勝てないゲームからは逃げろ!」そして「何か一つのゲームに勝て!」と言っている。

教育ママが子供に無理やり勉強させまくるみたいな話がよくありがちだが、ここで問題なのは、教育ママが”勉強”という一つの社会ゲームに固執してしまってる事だ。勉強が強力な社会ゲームなのは間違いないが、とは言え明らかに生まれつき勉強が得意な子と不得意な子がいるわけで、必ずしも努力すれば差を埋められるというものでもない。
無論、子供が勉強イケそうかダメそうかは、ある程度は判断に時間をかけるべきだろうが、全然見込み無さそうならもう諦めて、もっと勝てそうな別の社会ゲームをやらせるべきだろう。とりま色んな習い事とかさせてみて、その子に適性があって勝てそうなゲームに絞っていくのがいいように思う。もちろん、本人がやりたくない事は適正以前の話でやらせてもしゃーないかもしれない。

逆に、子供が特定の職業に憧れてを持ってしまうのも、結構な事だと思うかもしれないが、ゲーム思考的には良くない兆候である。何故ならそれは一つの社会ゲームに固執する事だからだ。自分がやりたいゲームがたまたま自分が勝てるゲームとは限らない。というか、勝てない可能性が高い。勝てないゲームに固執しても敗北者にしかなれない。
まあ、だからと言って夢を抱いた子供に対して「そういうのはゲーム思考的にはディスアドだよ」などと言ったってしゃーないわけだが。

ゲーム思考的には、子供時代というのはとにかく色々と挑戦してみて、自分が勝てるゲームを探す時期なんだろうなと思う。で、このゲームに自分が勝てる見込みがあるか無いか?の判断は、子供であるほど時間をかけても大丈夫だろう。何でもある程度やってみないと見込みあるかどうか判断はできないし。しかし、大人になるほど残り時間(寿命)が短くなるので、ゲームに勝てる見込みの判断時間も短くなっていくだろう。

いずれにせよ、負けそうなゲームからは逃げていい。むしろ逃げるべきという事だ。
ただし、逃げて終わりではない。逃げるのはあくまで他のゲームで戦うためである。「逃げ上手の若君」のアニメでは、主人公がとにかく逃げまくるのが特徴だが、ただ逃げてるのではなく、勝つために逃げてるのである。

学校のイジメ問題について、大人になった今では「イジメられてるならとっとと転校すりゃいいじゃん」となどと思う。今思うと学校なんて本当に狭い世界で、そんなゲームに固執する必要性は全くないことが分かる。
だが、たしかに自分が子供だった当時はそんな発想なんて思いも付かなかったような気がする。子供の頃は学校というのは逃れようのない絶対的現実で、そこが世界の全てのように思っていたかもしれない。とにかく、所詮はくだらない社会ゲームの一つに過ぎないなんてとても思えなかった。

イジメられてる子は、自分が敗北しそうなゲームからはさっさと逃げればいいんだが、やはり学校がゲームではなく絶対的現実だと思い込んでて、転校すりゃいいなんて考えにならないんだろう。だから、イジメられてても親に相談しないがちだし、親もまた学校が絶対的現実だと思い込んでたりすると、相談しても結局何もしてくれなかったりする。
学校もまた、学校が絶対的現実であり他の選択肢なんてないかのように生徒に思い込ませてる節がある。まあ、小中学は義務教育だから、学校なんて来なくてもいいんだよ、なんて言えない立場かもしれないが。
所詮、社会ゲームに過ぎないものを絶対的現実だと思い込んで苦しんでしまってる人には、ゲーム思考によって相対化する事で助けになるかもしれない。

よく自己啓発で言われるのが「自分がコントロールできる事に集中せよ」みたいな話がある。他人が自分の思った通りに動いてくれない時、その人に「なんでちゃんとやってくれないの!」なんて腹を立てたところで何も変わらない。変えられるのは結局自分だけなんだから自分を変える事に集中して、他は全部無視しろ。みたいな事である。
同じような事が、ゲーム思考においては「自分が勝てる社会ゲームに集中せよ」という話になる。ある社会ゲームで自分が勝てない時、努力したところでどうにもならないケースも多い。そんな時は所詮ただのゲームなんだからそのゲームプレイするのやめて別の勝てそうなゲームに挑戦した方がよい。

無論、ゲームに勝つためには努力が必要となる。しかし、いくら努力と言ったって、例えばYoutubeやtwitterみたいなSNSでは世界中の人間がライバルとなる。そんな中で世界一を目指していくら努力しても限界というものがある。

そこで、「ゲームを切り取る」という別のテクがある。別に、必ずしも世界一を目指してグローバルなゲームを戦う必要はない。世界一は無理でも日本一を目指せばいいかもしれない。それも無理なら東京都一を目指す。それも無理なら目黒区一を目指す。こうやって範囲を狭めていけば、どこかで自分が一番になれる範囲でゲームを切り取る事が出来るだろう。その狭い範囲で勝利してお山の大将になれるだけでも、まあいいじゃないか。考え方の問題に過ぎないかもしれないが、自分が勝てるようにゲームを切り取る事は敗北とはまったく異なる。

最初は「世界一の野球選手になるぞ!」なんて言っていた野球少年も、現実を知るにつれてやっぱ日本一…いや県で一番…いや校内で一番…と現実的な範囲でゲームを切り取っていくハメになるだろう。どんだけせま~く切り取ったゲームでも、勝利は勝利である。
ポイントは、自分が勝てない広い領域の世界はまったく見えないフリをする事だ。フツーの人が超大金持ちの豪邸を見て羨んだところで、敗北感しか得られない。「あれは違う世界の人だから…」とか言って関係ない事にしてしまえば自分の勝利に集中できる。

会社には、やたらと役職が細かい段階で用意されている。ヒラ、主任、係長、課長、次長、部長…何でこんなにあるのか?というと、これもまたゲームを切り取るテクの応用かもしれない。会社を一つの社会ゲームだと考えると、その勝利者は社長一人で、残りは敗北者になってしまう。そんなんだと社員は「一人しか勝てないなら俺が勝つなんて無理じゃ~ん」とか言って辞めちゃうかも。
だから、主任とか係長とか、細かい役職を用意してあげて「狭い範囲では勝利できますよ!」と言ってあげれば、社員だって自分でも勝てそうならやる気が出てくるだろう。

とは言え、そういう狭い範囲で勝って中間管理職になったところで、もっと偉い人からコキ使われるだけの人生である。じゃあどこまで行けばコキ使われなくなるのか?というと、たとえ社長まで上り詰めても今度は株主からギャーギャー言われてコキ使われるハメになる。株式会社などというものは、資本家が他人をコキ使って自分が儲けるために作り出したシステムなわけで、どこまで行っても本当の勝利などは与えてはもらえない。

会社でうだつが上がらなくて敗北してしまった人はどうすればいいのか?というと、会社以外のゲームを探すべきだろう。例えば、結婚すれば少なくとも”一家の主”になれて、家庭の中での勝利者になれるかもしれない。ゲーム思考では、とにかくどこかで勝ててさえいれば、まあ他で負けてても何とかなる。

しかし、最近は男女平等であるし、女房の尻に敷かれっぱなしの亭主も多い。会社でも敗北して、家庭でも敗北してしまうと、そのままでは精神的に死にかねないので、そういう人は早急に他のゲームを探した方がいいかもしれない。

例えば、釣りバカ日誌のハマちゃんは、会社でも万年ヒラ社員の敗北者であり、家庭でも女房の尻に敷かれて敗北者だが、趣味で始めた釣りにメチャメチャハマって頭角を現して、スーさんの釣りの師匠となって、趣味においての勝利者となれた。

ゲーム思考のメリット、デメリット

結局のところ、ゲーム思考で何が嬉しいのか?という話があるが、ゲーム思考はメリットもあるかもしれないが、デメリット、リスクもあるので注意すべきである。
私はゲーム思考という考え方が存在する…と言ってるだけであって、あなたがゲーム思考を使う事を推奨しているわけではない。

まず、ゲーム思考のメリットについてだが、自分や他人の行動を俯瞰して客観視する事ができる面がある。
「サマータイムレンダ」というアニメの主人公の慎平は、”自分を俯瞰する”のが特技であり、自分自身を上から見下ろす様子を想像する事で、状況を客観的に俯瞰して冷静に判断できるとの事である。
しかし、自分を俯瞰するとは具体的にはどのようにすればいいのか?幽体離脱みたいに自分自身を見下ろすというのは比喩表現であって、手法ではない。
ゲーム思考で自分や他人がどんなゲームをプレイしてるんだろう?と考えてみる事は、俯瞰するための具体的なテクと言えるかもしれない。

そして、ゲーム思考では大抵のものは社会ゲームとして相対化する事が出来る。他人を善悪の二元論で割り切ってしまわずに、それぞれプレイしてるゲームが異なるだけだと想像することができる。

マジメ型の善悪二元論だけで捉えようとする人は、例えばツイッターで正義マンになってしまいがちかもしれない。善悪などと言う判断基準自体、ゲーム思考では相対的なものでしかないというのに、それを絶対的なものだと思い込んでしまう。

また、イジメの話でも書いたが、社会ゲームを絶対的現実だと思い込んで苦しんでる人は、ゲーム思考で社会ゲームを相対化してしまえば助かるかもしれない。
タイタニックの映画で、ローズは最初船から飛び降りて自殺しようとする。名家のお嬢様でメッチャ金持ちのフィアンセがいて何が不満で自殺するんだ?と思うが、ローズは上流階級の連中の態度とかやってる事、言ってる事がとにかく性に合わなくて、ウンザリしていた。そして彼女はその世界が自分の絶対的現実だと思い込んでしまって、どこにも逃げ場が無いと絶望したから自殺しようとしてしまったわけだ。
だからこそ、ジャックはローズを三等客室のパーティに誘ったのだ。そこで上流階級の世界とはまったく別の世界を見せてあげる事で、ローズが逃れられない絶対的現実だと思い込んでたものは、社会ゲームの一つに過ぎないと相対化する事が出来た。それによりローズは絶望から救われたのである。

ローズの母親は、自分が名家にもかかわらず金が無くなって敗北しそうだったので、娘のローズを金持ちのキャルと無理やり結婚させようとした。傍から見ると全然勝ち組でも、名家バトルのような間違った切り取り方のゲームをプレイしてしまうと敗北者になってしまう。
金持ちには金持ちの苦労があって、全然幸せではなかったりするらしいが、全てはゲームの切り取り方次第かもしれない。

さきほど、「イマドキはもう普通なんか目指してもしゃーない」みたいな事を書いたが、とは言え普通の行動をとる、とにかくみんながやってる事と同じ行動をしておくというのはヒューリスティック的な一定の合理性があるとも言えるだろう。
何故なら、みんながやってる事をやってれば、少なくともまるっきり見当はずれな事をしないで済む事が保証されてるからだ。
しかし、ヒューリスティックに正解の行動が反映されるまでには、かなり時間がかかるという問題がある。世の中の状況の変化にヒューリスティックが浸透して追い付くのは、数年とか十年とかかかるかもしれない。

一方で、ゲーム思考では周りの人とまったく違う行動を取る事を厭わない。単にゲームクリアに必要なプレイをするだけの事だ。ゲームで遊んでる時、例えば麻雀でも何でもいいが、周りの人と同じプレイをしたところで勝つ事はできないなんて事は分かるハズだ。
まあ、ゲーム思考で周りと全然違う行動取った結果、大失敗するケースもあるちゃあるだろうが。

最近は世界は不安定な状況に向かっており、世の中の動きは加速しており、ヒューリスティック判断では全く追い付かなくなってきているゲームも多い。例えばコロナ禍の中で未曽有の行動制限がかけられていた中で、ヒューリスティックだけで正しい判断ができていただろうか。

タイタニックの映画で、船が沈没しそうだと分かるとキャルは金庫から金を引っ掴んで「運は自分で掴む」とのたまい、ジャックには「僕は絶対勝つ、どんな手を使っても」と抜かす。船員を金で買収するわ、少女を利用してボートに便乗して乗り込むわ、あらゆる手を使って自分だけは生き残ろうとする。善悪はともかく、キャルは筋金入りのゲーム思考野郎である。死んだジャックと生存したキャルはどっちが勝利者だろうか?

では次にゲーム思考のデメリットについて。

先ほどゲーム思考は自分を俯瞰するテクでもあると書いたが、そうやって自分を俯瞰して相対化してしまう事は、自分を自身から疎外する事にもなりかねない。
「すべては所詮、ゲームに過ぎないんだよ」なんて考えは、まあかなりシニカルな態度ではあるだろう。一方、マジメ型の人にとっては、全ては絶対的現実であり、つまり全てをマジに受け止める事が出来る。現実と自分が接続してるような安心感があるだろう。
そういう意味ではゲーム思考ばっかしてる人よりもマジメ型の人のほうが幸せかもしれない。

それから、ゲーム思考とは結局のところ、「これはこういうゲームなんじゃないだろうか?」と想像して仮説を立ててるだけに過ぎない。検証されない仮説というのはただの想像、妄想、思い込みでしかない点に注意すべきだろう。
ゲーム思考だけを暴走させてしまうと、ただの妄想癖野郎になってしまうかもしれない点に注意だ。

この問題を防ぐには、なるべくゲーム思考は”検証可能”な事についてだけに留めるべきかもしれない。
自分がやってる事についてなら、ゲーム思考で「こういうゲームだな」と仮説を立てた後、実際にゲームをプレイしてその通りにいくかどうかで仮説の正しさを検証できる。

スタートアップなんかでは、自分のやってる事業がどういうゲームなのかについて常にゲーム思考していると言っていいだろう。そのゲーム思考は常に検証もされてる。要するに、自分達のプロダクトが儲かりそうなら仮説が正しかったと検証できるし、儲からなさそうなら仮説は間違ってた事になるというシンプルな話だ。
そしてスタートアップでは仮説が間違ってたらただちに別の仮説を立ててピボットする。こうやって正解の仮説が見つかるまで試行錯誤を繰り返すわけだ。

それから、あまりゲーム思考は他人にひけらかさない方がいいかもしれない。先ほどハックは顰蹙を買いやすいと書いたが、「法律なんてゲームのルールに過ぎない」、「善悪とか無い」、「敗北してはいけない」、「とにかく勝てばいい」、「生き残ったもん勝ち」、「利他的精神とか無い」なんて事は、完全に映画の悪役の台詞であり、こんな事言ってたらやっぱし顰蹙を買いそうなので敢えて言うような事でも無いかもしれない。これらの話はけっして私の持論を言ってるわけではなく、ゲーム思考という一つの考え方においてはそんな風に考える事も可能であると述べているに過ぎない。

まあ、いずれにせよゲーム思考は便利な局面もあるかもしれないが、あまりゲーム思考だけに固執しすぎない方がいいかもしれない。所詮これは絶対的に正しい理論などではなくて、単なる考え方、捉え方の一つに過ぎないのだから。