前回のらせんの宿の記事で、ある種のゲームは、それ特有の感動を与えてくれるという点について触れました。

今回の記事では、そのような「ゲーム特有の感動の謎」についてもう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。

今回も、例によってなにかソースとか根拠とか実証とか無しで書くので、まあ仮説とかエッセイとかポエムとか与太話と思っていただいて構いません。
また、DVは深刻な社会問題ですが、DV被害を揶揄するような意図で記事を書いているわけではありません。とは言え、なにか内容に問題があればお問い合わせください。

どうしてゲーム特有の感動について考えるのか

自分がゲームを作ろうと思った場合に、たとえば「大好きなアンダーテールみたいな感動的なストーリーのRPGを作りたいなあ」とか夢が膨らみます。

しかし、正直今となってはRPGの戦闘は面倒に思ったりします。
昔好きだったドラクエとかFFみたいなRPGを今から再プレイしようと思っても、戦闘とかレベル上げとか面倒です。

プレイする側としてさえ面倒になってきた戦闘ですが、ゲーム制作側としては作るのがもっと面倒です。

だったら戦闘の無いRPGを作ればいいんじゃね?とか思ったりするわけですが、それで済むんだったらとっくに世間のRPGからは戦闘が取っ払われてるハズで、戦闘が何らかの機能を持っているから必要だからRPGには戦闘が必須になってるのでしょう。

つまり、RPGにおける戦闘の役割をちゃんと把握しないと、それを取っ払って代わりに何を置き換えれば成功するのかは分かりません。

要するに、なるべく低コストでプレイヤーを感動させるゲームを作りたいと考えると、果たしてゲーム特有の感動ってどういうメカニズムで起きるのか?を考える必要があるという事です。

アンダーテールのDV性

ここ数日、例によってキヨ氏のアンダーテール実況を見てました。
その中で、キヨ氏はアンダインについて「いきなりキレたかと思ったら急に優しくなるのがDV気質っぽい」と言ってました。

それを聞いてハッとしたのですが、言われてみればアンダーテールはストーリー全体がDV加害者に似てます

ここで簡単にDV加害者の特徴を書くと、DV加害者は被害者に暴力を振るったかと思ったら急に優しくなったりします。そしてそれを繰り返します。
すると、被害者は段々加害者に精神的に依存するようになり、「怖いけど好き…離れられない」という心理になって行きます。

一方、アンダーテールはストーリーの最初、フラフィーが現れて主人公を騙してイジメます。
かと思いきや、トリエルが現れて助けてくれてメッチャやさしくしてくれます。

この流れはDV加害者の行動に似てます。

その後も同じ流れが繰り返されます。
サンズの初登場シーンも、恐ろしいオバケか…?とプレイヤーを脅かしておいて、実は陽気なニーチャンでした!
パピルスも、ニンゲンハンター!と脅かしておいて、実はいいヤツ!
メタトンは今度こそガチで主人公を殺そうとしてる!と思ったら実はやらせでした!
まあ、概ね全てがこの流れです。

サンズやパピルスは登場してからずっとしょーもないギャグとかバカな行動をしてるばかりなのに、何故かプレイヤーは彼らをドンドン好きになってしまいます。
散々プレイヤーを脅かした後に、プレイヤーを安心させるために彼らはそういう行動をしてるわけなので、別にちゃんと面白いギャグを言うとかそういう必要は無くて、むしろつまんないギャグの方がいいのです。

プレイヤーはDV被害者と同じ心理でキャラ達が好きになってしまうらしいと分かります。

つまり、結論としては、アンダーテールの感動は、DV被害者心理によって与えられているという説です。
私はアンダーテールはメッチャ大好きなゲームで、崇高な気持ちと言っていいくらい感動したゲームなので、その感動の正体が「それは単なるDV被害者と同じ心理だよ」なんて事は認めたくない話ですが、今思いつく最有力仮説はこれしかありません。

そうして考えてみると、「らせんの宿」でも同じロジックが当てはまると気付きます。

主人公は赤おばさんから追いかけ回されてメッチャ脅かされます。
と思ったら今度はヒナタが現れて安心させてくる…という流れを繰り返します。
このアメとムチの連続によって、大団円の感動の素地が形成されるという説です。

アンダーテールやらせんの宿、やばたにえんで共通しているのは、事件の真相的な話は最後の最後で明かす感じにしてる事です。
どのゲームも、真相の話は感動的なストーリーですが、もしもこれがゲームの最初の時点で感動的な真相を明かされてたら、「ふ~ん、だから?」って感じでちっとも感動できなかったかもしれません。散々ゲーム内でDVして、プレイヤーを洗脳状態にした総仕上げとして最後に感動的な真相をブチ込む事でトリガーとなってドチャクソ感動してしまう…という事かもしれません。

そうして考えると、東方の原作シューティングも、ゲームクリアがメチャクチャ大変でゲームオーバーしまくるハメになりますが、そうやって苦労してクリアした直後に大半のプレイヤーはおまけ.txtを読んでしまいますから、なんか感動的なバックストーリーに感動しまくってしまうのかもしれません。

そういえば「殺戮の天使」のザックなんかもDV彼氏っぽいキャラな気がします。

で、考えてみると、アンダーテールでPルートを目指すと主人公は戦闘中にひたすら敵の攻撃から逃げ回るハメになります。
これは、らせんの宿でひたすら赤おばさんから逃げ回る事しかできない主人公に似てますね。

RPGの戦闘の機能と置き換え

つまり、アンダーテールはストーリーがかなりDV気質であると同時に、戦闘もまたかなりDV気質だという事です。

ここまで考えると、フリーホラーゲームで戦闘が取っ払われてて代わりに敵キャラがいきなり現れて追いかけてくる追いかけっこ要素がインしてる理由も分かります。

つまり、RPGの戦闘が持つ機能と言うのは、「プレイヤーの命をバーチャルに脅かす」事です。

DVは実際の暴力によって、被害者の命が脅かされる事で成立します。
一方、小説や映画で主人公が殴られたりしてても、視聴者は別に自分が脅かされてるとは感じません。

ゲームでは、プレイヤーの操作した通りに主人公が動くので、プレイヤーの脳は主人公を自分と同じだと錯覚します。ですのでゲームの主人公の命が脅かされるとプレイヤーは疑似的に自分自身の命が脅かされてるように感じます

これにより、RPGで敵から攻撃されてダメージを受けると、まるでプレイヤー自身の命が危ないように感じてしまいます。

ですから、RPGから戦闘を取り払うとしたら、代わりに何で置き換えればいいか?という話は、何でもいいけど何らかの主人公の命を脅かす要素である必要がありそうだと言えます。
で、フリーホラーゲームの場合はそれは捕まると殺されちゃう追いかけっこ要素だったというわけです。

おわり

というわけで、”疑似的なDVによってゲーム特有の感動が生まれる”という説について書いてみました。

RPGの戦闘が持つ機能は、疑似的な命の脅かしじゃないかという話も書きました。
”疑似的な死”と言うなら、遊園地の絶叫マシーンとかの方がかなり迫真かもしれませんが、ゲームのいい所はそこにストーリーやキャラクターを加えられるという点でしょう。

つまり、プレイヤーをキャラクターIPに依存させる事ができるという事です。

また、RPGの戦闘の機能が主人公の命の脅かしだとしたら、もっと簡単に作れて効果的なシステムに置き換えるとしたらそれは何だろう?という点についても考えていかないといけないでしょう。
つまり、もっと色んなゲームを遊んだりしてって考察を深める必要があるでしょう。

ちなみに、必ずしもDV要素だけがゲームの感動を生む…とかいうわけでは全然ありません。ある種のゲームの感動はDV由来かも…というだけです。
たとえば「A Short Hike」には一切脅かしとかの要素はない、ひたすら平和な世界にも拘わらず、クリア時には感動します。