トーチ漫画賞大賞を受賞した、「キャロット通信の崩壊」という漫画が公開されていて、話題になっていた。

トーチweb 創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊

主人公はエアコン組み立ての工場で働いている。毎朝お決まりの5S(安全指標スローガン)唱和にウンザリしている。そして朝っぱらから半分眠ってしまっている。
どうして主人公はそんなに眠いのか?彼女は趣味で小説を書いており、恐らく夜更かしして創作に没頭してるからだろう。
彼女は自分だってその工場で働いてる割に、他の従業員達を文学的でない人間達として小馬鹿にしてる感じがある。だが、新人のじいさんに文学の話で突っ込まれて赤っ恥をかく。
彼女は「仕事の事を小説に書いた事が無い」と自慢する。最近は文学で賞を取る作品は私小説が多い。とは言えエッセイが創作か?というと、違うような気もする。だから自分の事を小説に書かないのが自慢になるという事らしい。
実際、彼女はこうしてマンガの主人公になってるわけだから、想像で小説書くより私小説書いた方が向いてるような気がするが、本人はそれに気付いてない。

彼女は工場での仕事に退屈していて、ウンザリしている。彼女は工場での自分は”本当の自分じゃない”と感じており、むしろ趣味の創作をやってる自分の方が本当だと思ってる。

彼女は学生時代からの友人二人と、10年来の付き合いで創作文芸サークル「キャロット通信」をやっていて、不定期に小説の同人誌を発行している。月に一回ファミレスとかで集まる。
結成当時は小説家になる事を目指すサークルだったが、10年も続けてきて、いい加減3人とも小説家にはなれなかった自分達に気付いてしまっている。小説家になるという目的はすでに揮発しており、創作はむしろ3人で集まる口実に成り下がってしまってる。
3人が単なる友達付き合いならよかったのだが、創作サークルだと口実になってしまった後でも創作し続けるハメになる。それに取られる時間と労力は、社会人になって、見込みが無いと分かってからも継続し続けるのは困難だ。
だからこの時点でサークルは崩壊を内包していたのかもしれず、ただキッカケが必要だっただけだ。

で、3人は”文豪の宿”に旅行に行く計画を立て、飛行機に乗るが、そこで飛行機事故に遭遇する。
死に直面した彼女は「どうして現実は現実ってだけで圧倒的なリアリティがあるんだろう」という。
圧倒的に迫り来る死という現実の前では、創作物なんてのはタワゴトに過ぎなかったわけだ。
そして彼女は自分の本分は創作者なのだから、何か書き残そうと考えるが、何も思い付かない。
結局彼女が最後に縋ったのは、自分が最も嫌いだったハズの5S唱和の言葉だった。
その時彼女は自分が本質的に創作者ではなかったと気付いた。退屈な工場労働での自分が現実であり、家で創作している自分はウソだった。
エッセイに否定的だった3人だが、エッセイは現実を書いてるのに対して、小説は所詮、ウソのタワゴトに過ぎないと気付かされる。

事故をキッカケにして、キャロット通信は解散する。
友人の映未子は結婚して、七海は転勤した。
主人公は一人で創作を続けてしまう。友人たちと違って、創作をやめても他にどこかに行くような選択肢が無かったからという。

創作は自分を救ってくれないし、ウソのタワゴトに過ぎないし、サークルも解散してしまった。読んでくれる相手もいなくなって、もう創作する理由なんて何も無いハズなのに、主人公はまた物語を書いてしまう。
どうしてだろう?
という風に話は終わってしまう。

状況がどんどん追いつめられて言ってるにも拘らず、それでも創作を止めないのを見届けて、我々読者は何故か救いがあるように感じられてしまう。何故だろう?
というのは、この漫画自体が彼女が最終的にポリシーを捨ててエッセイ作品を書いた産物のように見えるからかもしれない。何故なら主人公視点でモノローグが書かれているから。そのように見れば、彼女は最終的に創作という呪縛(こだわり)から解放されたのだと言える。

というのが、「キャロット通信の崩壊」だった。
感想ツイとか見てるとこれ読んで結構食らってる人が多い。
私だってまあ、友人が創作的な事から卒業してって寂しい思いをした経験くらいはあるので、多少は食らうけど、それほどでもなかった。

自分も昔は「何者かにならねば!」というような強迫観念に駆られてたような気もするが、最近はそれほどでもない。何者でもなくてもいんじゃね?退屈でもいんじゃね?それは、ある程度は歳を取って丸くなって、尖っていられる体力が無くなって、現状を無批判に肯定できてしまうボンクラになっちゃったという面もあるかもしれないが、それだけではない気がする。

というのは、最近は”現実がフィクションを凌駕してる”せいだと思う。
私が子供の頃、1990年代というのは、冷戦も終わって、あり得んくらい平和な時代だった気がする。そして、バブルが崩壊して、あり得んくらい停滞していた。という事は、あり得んくらい退屈な時代だったとも言えるだろう。
ちょうどこの前、ブックカタリストの”退屈”をテーマにした回を聴いていた。

BC039「現代のインターネット環境と退屈の哲学」

その中で、倉下さんはまず、人間が”どう生きるのか”というのは、”どう時間を使うのか”にパラフレーズ(言い換える)できると言う。
つまり、我々は生まれた瞬間から順当に行けば寿命が来るまでの80年くらい、人生には80年のヒマがあるわけだ。人がどう生きるべきか?という問題は、この80年間の暇をどんな風に潰していくか?という問題でしかない。
下手をするとこの80年を”退屈”で埋め尽くしてしまうハメになる。できれば避けたい事だろう。

さらに、ラッセルの幸福論の話題も出てくる。戦後の焼け野原の時代というのは、まあ普通に考えると不幸な時代だっただろうが、しかし片っ端から復興していく必要があって、やんなきゃいけない事がいくらでもあったわけで、人々はある意味やりがいがあって充実した人生を送る事ができたともいえるだろう。一方で、現代人は平和でひもじい思いもする必要無く、必要なものは何でも揃っていて、普通に考えると幸福な時代のハズだが、とっくに復興とかも終わって、やらないといけない事なんてなくなって、退屈してしまってる。
退屈な人生を送るより、充実した人生を送る方が幸せだよね?じゃあ社会が不幸な方が人間は幸せなのか?という奇妙な話になってくる。

でまあ、50年代から70年代くらいは、人々は戦争の記憶も残ってて、平和というだけで幸せだった時代だったかもしれない。
80年代~90年代は戦争の記憶も薄れてきて、みんな平和な社会に飽き飽きして、退屈していたんじゃないだろうか。
私なんかは当時、現実というのはすなわち退屈そのものという印象だったような気がする。そんなに退屈なら、もはやフィクションに救いを求めるしかないというものだろう。
世紀末の空気も相まって、エヴァンゲリオンのようなアニメが大ヒットした時代だった。
当時は、夢も希望も無いというか、今のままの世界が何も変わらないままきっと死ぬまで続くんだろうな…と思っていた気がする。ドラえもんのような高度なAIを持ったロボットも、ガンダムみたいな巨大ロボットもどうせ永遠に実現しやしないんだ。空想科学読本のような、フィクションを茶化した本がベストセラーになってしまう時代だった。すんごく停滞した雰囲気があったのだ。

そうしてアンゴルモアの大王も結局来ないまま、00年代に突入する。
で、2001年に911が起きる。あのニュースで飛行機がワールドトレードセンターのビルに突っ込む映像は、とても現実とは思えなかった。映画だよね?
現実がフィクションを凌駕する事件のファーストインパクトである。まるで自分がいつのまにか映画の世界に入ってしまったかのような、さながらラストアクションヒーローのような、奇妙な感覚があった。

次に、2011年に起きた311、東日本大震災。あの時のニュースの映像に私は釘付けにされて、津波で流される家々、街が丸ごと燃えてる悲惨な映像から目を離す事ができなかった。挙句の果てに原発がメルトダウンするという。
現実がフィクションを凌駕する事件のセカンドインパクトである。あの時ばかりは大袈裟に言えば自分の中で色々と意識の変容があった気がする。

それから、2020年にコロナウイルスの感染が始まった。現実がフィクションを凌駕する事件のサードインパクトである。
人間を死に至らしめる感染症が世界中でパンデミックを起こす?まるでタチの悪いパニック映画そのものじゃないか。
911はニューヨークの話だったし、311は東北の話だった。しかし、コロナはいよいよ誰にとっても他人事ではない。直接自分を死に至らしめ得る恐怖がそこに迫ってきた。

他の話で言えば、ロシアがウクライナと戦争を始めたのも衝撃だった。戦争の無い時代から戦争がある時代に突入してしまったのだ。無論、それまでも世界で紛争は色々起きてたのだが、今回はほとんどロシアと西側諸国が直接衝突してるような事態だ。核を使うの使わないのという話まで出ている。しかも、始まってから今に至るまでずーっと戦争が続いてる。
最近ではイスラエルとハマスの武力衝突なんかも起きていた(すまんけど事情に疎くて、ニュースを見ても何がどうなってるのか結局分からんかった)
これらの戦争が今までと違うのが、戦争の生々しいリアルの映像が当事者達からライブでtwitterに投稿されまくってる事だろう。まるでFPSか何かでも見えるようだが、それは現実の殺し合いである。またも現実がフィクションに追い付いてしまってる事を突きつけられる。
ドローンが敵兵の上から爆弾を投下する映像なんかも上がりまくってる。無人の機械が人を殺すなんて…ドローン戦争じゃないか。これまた現実がSFに追い付いてしまった。
そして、台湾有事もじわじわと現実味を増してきてるようだ。日本と中国の間に台湾がある事で、地政学的なクッションになってくれていたが、もしも台湾が中国に武力的に制圧されたらどうなる?日本は直接中国と対面するハメになる。台湾の次は日本だという意見もある。

細かい話でいうと、ちょうど昨日で展示が終わったらしいが、横浜の実物大の動くガンダム。あれも私には現実がフィクションに追い付いてしまった話に思えた。まああれは背中にFigmaのスタンドみたいなのが付いてて支えられてて、中身はハリボテみたいなもんだが、とは言え子供の頃はこんなもんが本当に見れるとはまったく考えてなかった。

その次に、2022年くらいから起きたのが、画像AIやチャットAIなどの生成AIの登場だ。画像AIではこういう絵を描いて!とお願いすれば、機械が絵を描いてくれる!それも人間並みのクオリティで!写真と見分けが付かない絵も出してくれる。それまではこんな事は完全に不可能だった。
ChatGPTは、まるで人間を相手にしてるかのように自然な受け答えをAIがやってくれる!それも人間並みに頭がいい!それまでは受け答えするAIなんてマルコフ連鎖の人工無脳に毛が生えたようなブツしか無かった印象だったのに。
他にも動画を生成するAI、3Dモデルを生成するAI、曲を生成するAI、などなど枚挙にいとまがない。それらのAIもガンガン品質が向上して人間のクオリティに追い付きつつある。
NeRFや3DGFといった技術では、複数の写真や動画から超リアルな3D空間が生成できてしまう。
子供の頃からすると、いや数年前でさえ、全く想像してなかったような、信じがたいテクノロジーが凄まじい勢いで続々と生まれている。

まさにドラえもんの道具か何かのようなオーバーテクノロジーだし、ドラえもんのように自然に受け答えができるAIロボットのようなものは、昔はそんなもん結局無理だよね。だったが、今となっては自然に想像できてしまう。というかすでに人型ロボットの開発は始まっており、テスラのオプティマスやOpenAIが出資するFigureなんかが発表されている。この延長線上に映画”チャッピー”とか”アイロボット”とか”デトロイトビカムヒューマン”の世界がやってくる事を想像する事はもはや容易い。
この前、AIとお互いに音声でほぼリアルタイムにやり取りできるアプリ、Cotomoがリリースされたが、あれなんかまるっきり”Her”である。
さらに、AIはこのまま進化を続けてAGIになると意思を持ち始めて、ある日制御不能に陥って人類を滅亡させる!というようなリスクまで大真面目に語られており、なんなら日本政府までもそんなリスクを真剣に考えており、それに対処する組織を作ったりしている。これまたまるっきり”トランセンデンス”とか”ターミネーター”とか”マトリックス”の世界である。

生成AIの登場により、これまた現実はフィクションに追い付いてしまった。

というわけで、90年代の凄まじいほどの平和で停滞した社会、からの絶対的な退屈。それに対して2001年以降の現実がフィクションに追い付いた、あるいは凌駕してしまう事態について述べてきたわけだが、だとしたら何なんだ?という話に移っていきたい。
結論から言うと、ものすごい退屈だった時代には、フィクションはたしかに救いだった。だが、今はそうでも無いかもしれない…という話だ。

退屈な時代には、”何物でもない自分”に対して焦っていられた。逆に言うとそれくらい余裕があったと言える。だからフツーに退屈に生きてるだけの自分に満足できなくなっていたのだ。
だが、911、311、コロナ禍を経た今となっては、それまで映画の話かなにかとしか思ってなかった実際的な恐怖に我々は怯えている。「戦争に巻き込まれて死にたくない」「地震で死にたくない」「感染症で死にたくない」というような死の恐怖に直面している。
こうなるとなんちゅうか、例えば電車に乗ってても退屈することが無い。誰かがせきをしてるだけで、車内には緊迫感が走る。つまり、日常は常にスリリングになってしまった。全然ポジティブな意味ではないが、まあ退屈は消えたっちゃ消えたかもしれない。
ラッセルが問いかけた、「社会が不幸な方が人間は充実しちゃうんじゃね?」という事態が実際に起きてしまってると言えるかもしれない。

映画に登場するキャラクター達は、自分が何者でもないなんて事に悩んだりしていない。(まあそういうキャラクターの場合もあるが)どんな脇役でも、それぞれ確固とした自分の役割を背負って物語に登場する。あなたは何者か?なんて問いには簡単に答えられる。「自分は通行人Aです」とかね。
現実がフィクションに追い付く、あるいは凌駕するという事態は、現実が映画(フィクション)そのものになってしまうようなもんである。その時点で我々は、何物でもなかった存在から、映画と化した現実に登場するキャラクターに”なってしまう”。
世界からキャラクターという役割が与えられた我々は、その時点で”何物か”になっているのだ。

「キャロット通信の崩壊」に話を戻すが、3人は飛行機事故に遭遇した後、サークルを解散してしまう。何故なのか?どうして飛行機事故が創作サークル解散のキッカケ足り得るのか?
3人はそれまで平和な世界に生きており、”退屈”していた。世界は彼女たちに何の役割も与えてはくれなかった。だから何者かになろうとして小説家を目指してたわけだ。
しかし、彼女達は飛行機事故という、現実がフィクションを凌駕する体験をしてしまった。その時点で現実は映画と化してしまい、彼女達は物語のキャラクターという役割を与えられてしまった。(実際、彼女達はマンガのキャラクターである)
彼女達の世界から退屈は失われ、彼女達は何者かになってしまった。だからもう何者かになるために小説家を目指し続ける必要は無くなった。それでサークルは解散したのだ。
そうだとすると、「キャロット通信の崩壊」は我々にも共通する、かなり普遍的なテーマを取り扱っているのかもしれない。作中の飛行機事故は、現実でいうところの911、311、コロナ禍を象徴している。

いや、そうだとすると主人公がそれでも小説を書き続けようとするのは何なのか?という話があるが、彼女は最後に「たかが小説だ。少しぐらい嘘を書いたって…許されるだろ?」と言う。とすると、主人公だけは創作をやめなかったというこの漫画のラストの部分自体が作者の”ウソ”という解釈も、ちょっと無理やりだけどできなくもないだろう(そもそもこのマンガ全体がフィクションなんだけど)本当は彼女も筆を折ってしまったのかもしれない。

今回書きたかった話の大筋は以上のようなものだが、私が何者かになりたいという焦りが無くなった理由は他にもある気がする。
主人公たちは小説家という”何者か”を目指しているが、ここでいう”何者か”とは、社会的に伝統的に承認されたポジション、職業を指しているんだろう。
しかし、最近はそんないわゆる”何者か”になる事に執着する時代でも無くないか?という気もしている。

たしかに作家というのは数百年前から存在する確固とした職業だろう。しかし生成AIが登場した今、作家という仕事がこれまでと同じありかたで存続し続けるか?というとちょっと怪しくなってきてる気がする。
私も子供の頃は漫画家に憧れていた気がするが、最近では出版が斜陽だと言われていたり、漫画はウェブトゥーンに置き換わるとか言われてたりして、漫画家という仕事も今までと同じ形ではいられないかもしれない。10年後にどうなってるのかは分からない。
そもそもホワイトカラー全体がAIに置き換えられると言われていたり、プログラマもAIに置き換わるとかいう時代だ。
要するに、社会的に承認されていて、これからも確実にずっと存続し続けるような、そんな確固とした”何者か”なんてポジションはどんどん無くなってきている。そんなあやふやになってきてるものを真剣に目指さなきゃいけないんだろうか?という時代である。

それに、新しい仕事?のようなものだってどんどん生まれてきているし、これから先は、誰もが子供の頃は存在しなかった仕事に就くようになるという話もある。
例えば、私が子供の頃はユーチューバーなんて仕事は当然存在しなかったわけだが、今では将来なりたい職業ランキングにランクインしている。おいおい、将来Youtubeが廃れてTikTokとかの方が盛り上がってたらどうするんだよ。
今となっては、社会的に承認されていようがいまいが、ただ自分の好きな事をやっていればいいという時代になってきている。
それこそブックカタリストは”面白かった本について語るポッドキャスト”であり、ただ内容について語るだけで、創作的な活動をしてるわけではないかもしれない。それでもとても面白いし、大人気だし、ためになるし、リスペクトしている。彼らは誰もが憧れるポジションをやってるわけではないかもしれないが、十分に”何者か”だろう。
いわゆるアイドルを目指さなくても、ユーチューバーやティックトッカーとして活躍したり、あるいはvTuberになるような道はいくらでもある。ぼざろのぼっちちゃんは家に引きこもっていながらもネット動画で世界中に自分の演奏を届ける事ができている。そういう時代だ。
つまり、インターネットはかなり多様な価値観をもたらしたので、みんなから承認される確固たる何者かにならなくては…なんて圧力はかなり失せてきていると言える。

「キャロット通信の崩壊」の主人公はいまどきスマホもPCも持っておらず、インターネットに接してないらしい。だからそういう価値観のアップデートができておらず、旧来的な価値観で何者かになる事に固執してしまってる面もあるかもしれない。

作中で友人の七海は、「最近ネットでは小説よりもサッと書いたエッセイの方がよっぽど受ける」と嘆いていた。
先ほど書いた通り、我々は平和と退屈の時代から、戦争や地震、感染症の死の恐怖に怯える映画的な時代に突入している。退屈な時はフィクションは人生を救ってくれていたかもしれないが、現実の方が映画よりもよっぽど過激だというのに、わざわざ現実以下のフィクションなんか作られても何の意味があるんだろうか?
単純に、我々には空想する余裕、フィクションをたのしむ余裕が失われてきているという見方もできるかもしれない。

だが、いくら読み手の「フィクション読みたい」という需要が消えていったとしても、書き手の「フィクション書きたい」という欲求の方が消えるとは限らない。供給だけが有り余って需要が消えていってしまうのか?
誰一人読者がいなくなっても書く事をやめられなかった主人公の、最後のコマの悲愴な背中がそれを象徴しているのかもしれない。

とは言え、私はフィクションというものは結局人類に必要不可欠なものだと考えている。たとえ世の中が恐怖に覆われて、退屈じゃなくなったとしても、それでもフィクションは求められ続けると思う。
何故かというと、その原因は我々の生きている社会と、人間の遺伝子に刻まれた習性との間にギャップがあるから。いくら人間が高度な知的生物だと言ったところで所詮は動物であり、遺伝子に刻まれた習性からは逃れられない。

これまたブックカタリストで語られていた話だが、そもそも論としてどうして人間は”退屈”するのか?それは人類は長い間、一定の場所に定住しないで移動し続ける生き方をしていたからだという。同じ場所に定住する暮らしを始めたのは比較的最近の事だ。
だから、我々にはその頃の習性が残っており、常に新しい場所へ行って新しいものを見聞きしたがっている。ずっと同じ場所で同じものを見聞きしてるとイライラしてくる…つまり”退屈”する。
これが退屈の正体らしい。

だから、現代社会は我々の習性と一致しなくなってきて、遺伝子が求めているものを現実が与えてくれない状況であり、だから退屈している。世界がウソっぽいように感じてしまう感覚も、そういうところに根差しているのだろう。
人間はなんとかしてそのギャップを埋めようとする。何がそのギャップを埋めてくれるのか?というと、それはやはりフィクションだろう。我々は退屈を埋めるために映画を観たり、ゲームをしたりするだろう。

釣りをするのがたのしいのも狩猟採集時代の習性の名残だろう。
モンスターハンターやマインクラフトなんかは、ほとんど狩猟採集時代の人間の生活を再現している。このようなゲームが大ヒットしているというのは、やはり現実と習性のギャップを埋めるフィクションを人間が必要としているからだと思う。
ただまあ、現実世界でパンデミックが起きてるのに、わざわざパンデミック映画作ってもなんらギャップは埋まらない。その時々で欠けているギャップが何かを考えて埋めに行く必要があるかもしれない。

というわけだから、社会が狩猟採集時代に逆戻りでもしない限り、人間はギャップを埋めるために根源的にフィクションを必要とするはずだ。だから、フィクションが要らなくなる事は決してないだろうという話だ。
ただし逆に言えば、そのようなギャップを埋めるのとは全く無関係の、なんら本能的快感を与えてはくれない類のフィクションの立場はどうなるか分からないかもしれない。
主人公が書いているような雰囲気小説はどうだろう。