去年はICOが発売して20周年という事で、色々と特集記事とか出たりしてました。

様々なゲームクリエイターがICOに影響を受けていたという話も出てました。

フロムソフトウェアの現社長で、ダークソウルとかを作った宮崎英高さんなんか、当時たまたまICOをプレイしてぶったまげて完全に無言になって急に会社を辞めてフロムソフトウェアに入ったそうです。

人間の人生をコロッと変えちゃってダークソウルみたいなゲームが生まれる事に寄与してしまうような何らかのクソデカい魅力がICOというゲームにはあるという事です。

確かに分かるわあ。
私もICO好きですから。

自分でゲーム作るならICOみたいなゲーム作りたいよなあみたいな適当な事考えちゃいますね。

というわけで、一体何故ICOというゲームは特別なんだろう?という点について考えてみようと思います。

まあ、今回も特に根拠とか提示せずに何となく思い付いた仮説を書く感じになります。

ICOの3つの特徴

ICOが特別なゲームである理由ですが、以下の3つの特徴を兼ね備えてるからだと考えました。

①プレイヤーがICOの世界に没入できる

②ICOの世界でヨルダが生きていて存在している事が信じられる

③ゲーム世界が比較的現実に近い

最初は①だけで考えてましたが、ゲーム世界に没入出来るだけならそういうゲームは他にもあります。

そこで②の特徴を足してみましたが、よく考えるとマイクラはそれなりに①も②もありそうだけどマイクラはちょっと違う気がする…と思ったので③の特徴も要件として足してみました。

この①~③の特徴が揃う事で、あたかもゲームプレイヤーが自分とヨルダが同じ世界に存在しているように感じることができて、それがICOの体験を特別たらしめている…という仮説です。

我々はフィクションのキャラクタと同じ世界に存在することができるか?

我々は、フィクションのキャラクターと同じ世界に存在する事が可能だろうか?

ある意味で、これは私がずっと考えてきた問題だったような気がします。

それで、どうやったら自分がフィクションのキャラクターと同じ世界に存在できるようになりますか?

一つ目の方法としては、キャラクターを現実世界に連れてくる方法が考えられます。

私はこれを実現するために、AR技術が使えるんじゃないか?と考えて、自分でもARでキャラクターを表示できるアプリとかを作ったりしてみました。

しかし、残念ながら実際やってみたらかなりシラケた気分になりました。

AR技術によって、例えばスマホカメラ越しに、現実世界にキャラが存在するように表示して見せる事はできますが、だからといってキャラが本当に現実世界にやって来た!と信じられるか?というと、まあそんな訳ないだろ!(やる前に気付くべき)

これはスマホVRだからダメとかじゃなくて、HoloLensのようなARグラスでもダメでした。
いや、ARグラスは表示するモノが全部透けてしまう分、さらに実在感が薄いかもしれません。

なぜシラケちゃうのか?と言うと、まあキャラとできる相互作用が限定的だから…とか要因は色々考えられますが、例えば大人が着ぐるみのアンパンマンショーを見ても、子供の時みたいにそれが本物のアンパンマンだと信じられないに決まってる…みたいな常識的に考えれば分かる問題かもしれません。

(ちなみに、伊集院光さんが言ってましたが、別に子供の時だってショーのライダーや戦隊が本物だなんて信じてなかったと思うけど、何故か子供の頃はそれでもシラケずに夢中になれた、みたいな事を指摘されてました)

さて、現実世界にキャラを連れてくる事に失敗したなら、逆に自分がキャラクターがいる世界に入っていけばいいのでは?と考えます。

私はこのアイデアにかなり夢中でしたから、そのためにUnityでVRアプリを制作するVRエンジニアとかやっていた…というか今でもやってるような状態です。

VRなら、容易に3DCGで構築された世界に自分が没入していく事が可能です。
さあ、あとはそこにキャラクターを表示すればいいだけ!…それでどうなったか?

たしかに、自分がそのキャラと同じ世界に今存在している!という迫真性は結構出せました。
しかし、キャラがその世界にたしかに存在して生きている!という感じが出せません!

どういう事かと言うと、VRでは両手のコントローラでVR世界のモノを直接触る事ができます。
つまり、VR世界の中で自由自在にアクションする能力を得たわけで、じゃあキャラクターの顔を触ったりまあ言うたらおっぱい触ったりもできちゃうわけですが、そういう事をしたとしても、キャラクターはこちらが期待するようなリアクションを返してくれるわけではありません。(まあちゃんとリアクションを実装すればいいんだけど、キリが無いし、どういうリアクションを期待するかは人それぞれ)

全然人間らしいリアクションを返してくれないと、ああ、作りものなんだな、所詮ゲームだなとか思い始めて、キャラがその世界でちゃんと生きているなんて思えません。

例えばこちらのVRカノジョのプレイ動画では、カノジョがいる部屋でモノを投げまくったりして遊んでますが、カノジョはビックリしてみせたりもせず、無反応です。

というか、そもそもプレイヤーが本当にカノジョが生きて存在していると信じてたら、現実世界において非常識な行動はVR世界でもやらないはずです。

というわけで、今のところは「VRでキャラに会う」みたいな方法もやや貧弱な結果をもたらし、私は落胆しました。

それでやっとICOの話に入りますが、ICOではプレイヤーをなるべくゲームの世界に没入させるという、私がVRで試みた作戦に近い事をやっています。

さらにその上で、ICOではヨルダがゲーム世界に実際に存在して生きている、という風に感じる事ができるように工夫しています。これは私がVRで失敗した点を上手くクリアしているという事です。

プレイヤーがICOの世界に没入して、主人公の少年と同一化した上で、ICOの世界でヨルダが生きて存在していると信じられる事で、あたかもプレイヤーがヨルダと同じ世界にいるかのごとく感じることができます。

プレイヤーがゲーム世界に没入できるための仕組み

ところで、松永伸司さんは「ビデオゲームの美学」などで、「プレイヤーがゲームに没入するとか、プレイヤーがキャラと同一化するとかよく言うけど、それってつまりどういう事なん?」という話をされてます。

松永さんによると、「行為のシミュレーションが写実的な場合にプレイヤーはゲームに没入できる」的な事らしいです。

ゲームプレイがフィクション世界上での行為として見立てられて、かつそれらが一致しているほど行為のシミュレーションが写実的だと言えます。

さらに、松永さんはナラティブの概念についても、それはプレイヤーについての物語という事だとしています。
ゲームプレイとその結果がフィクション世界上でのプレイヤーキャラの物語に見立てられ、かつそれらが一致しているほどプレイヤーにとってリアルに感じられて、ナラティブになります。

例えばファミコンのドラクエとICOの戦闘は、どちらが没入的か?を考えてみます。

ドラクエでの戦闘は、フィクション世界上での戦闘に見立てられます。ゲームでりゅうおうを倒す事は、フィクション世界でもりゅうおうを退治する事だからです。

しかし、ドラクエでの戦闘は、フィクション世界上で行われてるであろう戦闘とは必ずしも似てません。
フィクション世界上では激しいアクションを伴って戦いが繰り広げられていそうですが、プレイヤーが戦闘時に行うゲームプレイは”たたかう”とかのコマンドを入力して成り行きを見守るだけだからです。

それに比べると、ICOでの戦闘はフィクション世界上での戦闘を比較的忠実に再現しています。
プレイヤーは自分で走り回って棒を振り回して影をぶん殴って追い払ったり、影に引きずり込まれかけたヨルダの手を繋いで引きずり出したりします。

というわけで、ドラクエよりICOの方が戦闘は没入感が高いという事が言えそうですが、だからといってICOの方が面白いとか言ってるわけでは無いです。

没入感が高けりゃいいのか?とか言ってません。
ただここでは没入感が高い事はヨルダとプレイヤーが同じ世界に存在するように感じられるための条件の一つだと言ってるにすぎません。

比較的ゲーム性が薄い

いきなりディスか?と思われそうですが、まあ聞いてください。

私はこの前「黄昏ニ眠ル街」というゲームを遊んでいました。
このゲームはグラフィックスがかなり綺麗で、私は最初背景をしげしげ眺めてゲーム世界に没入してました。
しかし、てっきり私は雰囲気ゲーだと思っていたのに、アクションパートではかなりシビアなジャンプアクションが要求されました。
落下して死ぬたびに段々とゲームにムキになっていってしまい、急速に背景のグラフィックスの良さとかがどうでも良くなっていく自分を感じました。

他の例でも、「ハーフリアル」という本で書いてましたが、Quake3のプレイヤーは最初は美麗なグラフィックを見て喜んでましたが、ゲームに慣れてくるとやがてグラフィックとかどうでも良くなってきて、グラフィック設定を下げる傾向があったそうです。グラフィックとかよりもfpsを上げたいというわけです。

私はゲーム性が高いとプレイヤーはゲームにムキになる…つまりフィクション世界からゲームメカニクスに関心が移行すると思います。そうすると、当然フィクション世界への没入は失われます。

ゲーム性が高いってどういう事か?というと、ゲームに目標が強く設定されていて、目標達成のためのゲームメカニクスも濃い状態だと思います。
そういうゲームは、上手くプレイしている人を見ると「センスある!カッコいい!」と感じます。

Quake3のようなFPSはゲーム性が高いでしょう。

ちなみに、ゲームにムキになってるプレイヤーは、フィクション世界的には非人道的な選択を平気でしがちです。例えばドラクエ5でキャラ性能だけでフローラを選ぶプレイヤーは、そのせいでビアンカが寂しい暮らしをするハメになっても気にしてないという事です。

このようなゲームプレイヤーがムキになると非人道的になる事を皮肉っているのがUndertaleのGルートだと思います。プレイヤーはゲームを進行させたいがためにモンスターを皆殺しにするという非人道的な選択をします。(さらに、普通のRPGではモンスターを皆殺しにするのは基本的前提で当たり前の行為であるというのも皮肉ですが)

プレイヤーがゲームにムキになってる状態は、フィクション世界には没入してないものの、ゲームメカニクス世界に没入してると言えますので、はたから見てるとどちらもゲームにハマってるという点では何も変わってないように見えますが、プレイヤーの内面的には大きな変化が起きています。

ICOに話を戻しますが、ICOはゲーム性としてはパズルゲームの要素を持ってますが、プレイヤーがムキになるような難しいパズルはありません。

ですから、比較的ゲーム性が薄いので、プレイヤーがムキになって没入を阻害する事は起きにくいです。

画面にUI類が無い

大抵のゲームは画面上にゴチャゴチャとUI類が表示されています。

しかし、ICOでは画面上にUI類は一切表示されません。

どうして画面上にUI類があるとゲーム世界への没入を阻害するのか?というと、UIはメタ的な表現だからです。

例えばゲーム画面上にヒントとして矢印とか表示されたりしがちです。↓

この矢印出してるのって誰だよ?と考えてみると、まあゲームデザイナーが「ココ見ろ!」つって矢印を表示していると考える事も出来ます。

つまり、ゲーム世界と我々の現実世界の間に、ゲームデザイナー世界が差しはさまれてて、ゲーム世界の映像を見ながらヒントの矢印を表示しているゲームデザイナー世界の映像を、さらに我々が見ているわけです。

一段階余計な世界が挟まる事で、当然没入は弱くなります。
例えばアニメの映像の中でさらにアニメが表示されている、アニメ内アニメとかあったりしますが、アニメ内アニメは間接的すぎて感情移入するのは難しいでしょう。

これなんかでは、アニメに芸能人のワイプが表示されてます。↓

このケースだと、アニメを観ている芸能人を我々が見ている形になって、アニメへの没入はかなり阻害されます。

さて、そんな訳ですからUI類を排除した事でICOは没入感を高めることができました。

この方法の弱点は、ゲームメカニクスの情報をプレイヤーに一切伝えられない事です。
プレイヤーキャラのヒットポイントも、ミニマップも、ヒントの矢印も表示できません。

ですから、UI無しでも成立するように、むしろゲームメカニクスの方を相当シンプルにする必要があります。
たとえばICOでは少年のヒットポイントの概念はありません。少年は生きてるか死ぬかの2つの状態しかありません。

さらにヒントの矢印とかが表示できないのもかなりキツイ制限です。
プレイヤーはノーヒントで攻略を迫られがちになります。

ちなみにヨルダは自分が気になったものを指さすという形でプレイヤーにヒントを与えてくれる時もあります。

ちなみに「人食いの大鷲トリコ」でも、まあ普段はUI類は排除されてますが、操作説明のテキストとかは割と普通に表示されます。(ICOには一切無いから、最初は手あたり次第ボタン押してみるか、説明書を読むとかしかない)

テキスト表示が極めて少ない

ICOではUI類が無い事に加えてテキストが表示される事がほぼありません。

とは言え、必ずしもテキストがゲームへの没入を阻害するのか?と言われるとちょっとよく分かりません。
小説はテキストオンリーですが、小説を読んでいて作品世界に没入する事だってあるような気もします。

しかし、アクションゲームのゲーム体験と、そこに急にテキストメッセージが表示された時のテキスト体験の間には、分断があるっちゃあるような気がします。

まあそれを言うたらカットシーンだってゲーム操作を中断させられますが、ICOにはそれなりにカットシーンはあります。

たとえば、ステージをクリアするたびにテキストウインドウが出てきて少年とヨルダがテキストで掛け合いを喋るみたいな仕組みを入れたらどうですか?

ゲームのテキストが没入を阻害するのか?という話はハッキリした事は分かりませんが、プレイヤーが操作できない状態でキャラ同士が会話したりカットシーンを見させられる状況は、舞台の上の主役を演じていたプレイヤーをいきなり観客席にワープさせて観客化する行い…に例えられなくもないでしょう。

プレイヤーを没入させたいならそういう要素は無いに越した事は無いと言えそうです。

空間表現が現実的

まあ大抵の3Dアクションゲームはそうですが、空間のグラフィックス表現がリアルな3D表現で、ゲームメカニクス上の空間と一致しています。

こうすると、こうなってないゲームよりは没入感は上がります。

例えばスマブラでは見た目は3Dグラフィックスですが、ゲームメカニクス的には2Dでしか移動できません。
左右から挟み撃ちにされると、そんな事言ってもしゃーないと分かっていても「奥にかわせ!奥に!」とか思っちゃいます。

キャラ操作が身体感覚にマッチしている

コントローラを操作すると、主人公の少年はプレイヤーの身体感覚に即したアクションをしてくれます。
こうする事でプレイヤーと少年の同一化が促進されて没入感が増します。

たとえばワープしたり空を飛んだりビームを発射したりはできません。
人間にできないような事をキャラがやり出すと、「え?このキャラと自分ってちがくね?」と思って同一化が阻害されそうです。

格ゲーなんかでも、キャラの動きがプレイヤーの身体感覚に即してる事が重要とされています。
リュウの波動拳とかは即してないだろ!と言われると、あれはあくまで飛び道具で、たまに使うだけのスパイスみたいなもんで、基本はやはりパンチやキックが重要らしいです。

少年はあまり喋らない

少年はカットシーンでは喋るものの、インゲームではセリフはありません。(ヨルダへの呼びかけだけある)

プレイヤーが思っても無い事をプレイヤーキャラがあれこれ喋り出すと、プレイヤーは「このキャラと自分って違うな」と思ってキャラとの同一化が阻害されます。

例えばファイナルファンタジーでは比較的プレイヤーキャラがあれこれ喋るのに対して、ドラクエではプレイヤーキャラはあれこれ喋りません。選択肢もはい/いいえの形式で答えるので、プレイヤーの意に反する発言はしません。

ゲーム世界でヨルダが生きて存在していると信じられる仕組み

ICOでは、ヨルダの実在感を出すための仕組み…というよりは、ヨルダが人間では無いとバレちゃうのを防ぐような仕組みが色々入ってます。

プレイヤーがヨルダと手を繋いで引っ張って連れていくリアリティ

ICOでは、プレイヤーが実際にヨルダを連れ回す必要があります。
実際に、とはどういうことかと言うと、具体的にはコントローラのR1ボタンを押して、ヨルダに「こっちに来い」と呼びかけるか、手を繋いで引っ張って先に進む必要があるという事です。

それまでのゲームでは、プレイヤーが「自分が実際にNPCを連れて行ってる」と感じられるようなゲームは多くなかったでしょう。

たとえばFF8ではパーティ3人でマップを歩き回れますが、スコールの後ろを他の二人は忠実に付いてきます。スコールが移動してるのを見て追ってくる、というよりは、ラグ無しで完全にスコールの移動をなぞってきます。

まあ、スーファミのドラクエとかも同じっちゃ同じなのですが、FF8はキャラの頭身が上がってグラフィックスがリアルになってる分だけシュールです。

FF8の移動をネタにした動画とかもあります↓

つまり、FF8のNPCには意思が感じられないという事です。

これは不自然だったな…と思ったのか、FF10ではティーダ一人だけ表示されるようになりました。

で、FF12ではやっぱりNPCが付いてくる形になりましたが、FF8と比べると、ちゃんとプレイヤーキャラが動き出したのを見て付いてくるような挙動をするので、人間が付いてきている感は増しました。

しかし、それでもひたすら忠実にプレイヤーキャラの後ろを付いてくるのはあまり人間味を感じません。
もっとプレイヤーを無視して多少好き勝手に歩き回ったり、言い合いになったり、人間らしい行動をしてみせてもいいんじゃないでしょうか?

「そんな事言ってたらキリないだろ!」「それがゲームのお約束だろ!」と言われると、まあそれはそうです。

細かい事言い出すと実装が無限に大変になるのは分かりきってます。
でもまあ、スーファミのドラクエとかやってた時には気にならなかった事です。

スーファミRPGはドット絵で記号的な表現でしたから、すべてが”見立て”でできてました。
しかしPSやPS2でキャラがポリゴンになって写実的になってるのを見たら、キャラの挙動だってもっとリアルになる事を期待してしまいます。

まあ、こんな風にグラフィックだけが先行して進化していた状況では、プレイヤーは潜在的にフラストレーションを溜めていたわけです。

ところがICOではヨルダは勝手についてきたりしません。
普通に考えるとぼーっと突っ立ってるよりは勝手についてきてくれる方が人間味を感じるような気がしますが、機械的に付いてくるとFF8的なシュールさが発生するのでむしろ突っ立ってる方が、”非人間性を露呈しない”だけマシです。

(ヨルダは完全に棒立ちではなくて、ちょっとだけ自律的に動いたりします。興味のあるものに近づいて行ったりもします)

やろうと思えばヨルダを置き去りにしてどんどんマップを進んでいく事も可能です。(まあ結局ヨルダにしか開けられない扉があるから連れてくるしか無いんですが)
普通のゲームならご都合主義的なシステムの助けでヨルダがワープして付いてきてたりするところですが、ヨルダは置き去り地点にずっといます。

というわけで、ヨルダは動かないのでプレイヤーが自分で手を引っ張って連れていくしかありません。
(ちなみに”プレイヤーがヨルダを引っ張って連れていく”なんて書き方ができるのは、あたかもプレイヤーに自分がやってると感じさせるのに成功しているという意味で、没入感が高いゲームである証拠でしょう。だって本当はヨルダを引っ張ってるのは主人公の少年のハズです。)

実際にヨルダを連れて行くのは主人公の少年ですが、操作としてはR1を押しっぱにしてヨルダの手を繋いだ状態で移動して引き回す事になります。
R1押しっぱと言うのはかなり意識的な操作が要求されます。

これにより、プレイヤーがヨルダを自分で連れていく、という事のリアリティが上がり、それは行為のシミュレートになりますから没入感が上がります。
ここまでマジな意味でNPCを連れていくゲームはそれまで少なかったので、それがICOを特別なものにしています。

プレイヤーからヨルダへの働きかけが制限されている

ICOではプレイヤーからヨルダへの働きかけはR1ボタンにまとめられています。

距離が近い時は、手を繋ぎます。
距離が少し離れてる時は、「オンソワ」とか言ってこちらに来るよう呼びかけます。
距離がだいぶ離れてる時は「オーイ」って叫んで呼びかけます。

プレイヤーがヨルダに対して出来る事はこれだけです。
あとはしいて言えばセーブポイントのソファに座るとヨルダも隣に座ってくれますが。(これはフィクション世界的には二人は休憩するという意味です)

VRでは、プレイヤーはNPCに対してあらゆる働きかけをする事ができます。
しかし、それが仇になります。

プレイヤーからの働きかけに対してVRのNPCは適切に応答してくれません。(応答してくれたとしても、何回やっても同じ反応だったり)

これにより、かえってNPCの実在性は失われます。

ICOではプレイヤーからヨルダへの働きかけはR1ボタンしかありません。
その代わり、プレイヤーはヨルダの反応にあれこれ余計な期待を持たずに済みます。
ですから、ヨルダの実在性は破綻しずらいです。

まあそうは言っても、例えば棒で殴りかかっても無反応…みたいな所はあるっちゃあるんですけど。

ヨルダには意思がない

ヨルダは意思を持たないか、あるいは極めて意思が薄そうな受け身なキャラみたいに表現されてます。

これもまたゲーム的にヨルダのリアクションが薄い事の説明になってます。

仮にヨルダをもっと活発なキャラ、例えば極端な話、ドラゴンボールの悟空に差し替えたらどうなるでしょう?
悟空が無言でぼーっと突っ立ってて、手を引っ張って連れて行かないと自分では動かないとかだったら…怖いだろうが!

アニメキャラをVRに突っ込んだ時も同様の問題があります。

そもそも無反応な感じのキャラって事にする事で齟齬は減らせます。

ヨルダは喋らない

少年もヨルダも架空の言語を話します。

ただし、カットシーンで少年の台詞には日本語の字幕が付いてるのに対して、ヨルダの台詞は意味不明な記号の字幕が表示されます。

これは、日本人と外国人みたいな感じで、言葉が通じない事を表しています。

そもそもゲームのAIでは高度な知能を表現できませんから、プレイヤーとNPCが高いレベルで意思疎通できる事は期待できません。

少年とヨルダが言葉が通じない事は、意思疎通がややギクシャクだったとしてもしゃーないと正当化できます。

閉じ込められているという状況

少年と少女が異世界とかに行ったりして、二人で協力して冒険する、みたいは話はボーイミーツガール+ジュブナイルな感じで児童小説とかでよく見られるパターンです。
例えば「二分間の冒険」とか、あとはラピュタとかもそうかもしれません。

ICOに対して「絵本みたい」という感想があるそうですが、こういう点に由来しそうです。

ICOは非言語的なゲームでテキストがほとんどありませんから、あまりややこしいシナリオは語れません。
テキストが無くても誰が見ても何をすればいいか分かる状況を設定する必要があります。

少年とヨルダは城の中に閉じ込められているので、「二人で協力して脱出しなきゃ!」と誰でも自然に思います。

もしもこれが二人が閉じ込められていない、自由な状況だとしたら、プレイヤーは各々好き勝手な期待を持ち始めます。「ヨルダと二人で旅をしたいなあ」とか、「ヨルダを無視してどんどん進んでいってもいいじゃん」とかそれぞれ勝手に期待しますが、ゲームはプレイヤーのあらゆる期待を叶えるようにはできません
二人を城に閉じ込めておく事で、プレイヤーがゲームに何を期待するのか?をコントロールできます。

「SAVE THE CATの法則」という本で、「脚本が原始人でも分かるかどうか考えろ」という話が出てきます。

https://books.google.co.jp/books?id=EuJmDwAAQBAJ&pg=PA91&lpg=PA91&dq=%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%82%82%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B&source=bl&ots=wKT6tyEJ-Z&sig=ACfU3U0jhD-Bp_ok8LwDiUYwb4E5T0z7GQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjVgreh2qL1AhUOfd4KHbx4CRIQ6AF6BAgTEAM#v=onepage&q=%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%82%82%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B&f=false

キャラクターが原始人でも分かるような本能的な動機で行動する話は、世界中の誰にでも共感する事ができます。

ICOの閉じ込められた場所から脱出する、という動機もシンプルですが本能的な動機ですから、テキストが無くても誰でも理解、共感できます。

ヨルダの生殺与奪権は自分が握っている

ヨルダはしばしば”影”(モンスターみたいなの)に連れ去られて影の中に引きずり込まれてしまいそうになります。
放っておくとヨルダはある意味で死ぬという事です。

ヨルダを助けることができるのはプレイヤーしかいません
こういう状況では、プレイヤーはヨルダへの愛着を深めがちです。

例えばハムスターを飼っている方で、「ハムスターは私がもし握りつぶしたら死んじゃう所がかわいい」みたいなツイートを見た事があります。

上田さんはレミングスの影響を受けているそうです。
レミングスでも彼らの生殺与奪権は全てプレイヤーが握っています。

プレイヤーがNPCの生殺与奪を握ってるという点を突き詰めると、たとえば「やばたにえん」みたいなゲームになります。

ちなみに、ICO発売当時のCMも面白いです↓

CMでは、ICOのゲームとまったく無関係なストーリーが繰り広げられます。
主人公の女子学生は、ねん挫したしおり先輩をおんぶして保健室かどこかに連れて行ってます。

そして最後に「今、この瞬間、しおりは私無しではいられない」と言います。

なんなんだこのCMは?と言うと、これは直接的にICOのゲームを表していませんが、間接的にICOの一部の側面を象徴しているわけです。
主人公は、しおり先輩を背負って運んであげて、一見親切ですが、しかしそうする事でしおり先輩を独占して、ある意味支配する事ができていて、その事に快感を感じてしまってるわけです。急に最後にしおり先輩を呼び捨てにするところからも、今は私が支配権を握ってるんだぞ!という意識が表れてます。

ICOのゲームの少年は、まあ少年特有のピュアさで純粋な親切心で行動してるかもしれませんが、それを操作しているプレイヤーの動機には、このCMの主人公みたいなほの暗い欲望が滲み出てる…という点をこのCMは糾弾しています。

要するに、よくよく考えるとキモさがあるなあという事です。そういうキモさは風景の美しさや少年少女のジュブナイル感とかでオブラートに包むというか、上書きして表面的にはプレイヤーに気付かせないように工夫されてます。

こういう風に、よくよく考えるとキモいんだけど、なんか見た目の綺麗さとか演出で誤魔化されて表面的にはなかなか気付かせない…みたいなのってジブリアニメでもよく”やってる”ような気がします。

ゲーム世界が比較的現実世界に近い

上で①と②の特徴だけならマイクラもそんな感じという話をしました。

”①プレイヤーがゲーム世界に没入できるための仕組み”については、ほとんどマイクラでも当てはまります。
ですから、実際マイクラの没入感は高いです。

”②ゲーム世界でヨルダが生きて存在していると信じられる仕組み”についても、例えばマイクラの村人とかでもほとんど当てはまります。
ですから、たしかに村人がマイクラ世界で実際に生きていて存在していると感じられます。

じゃあマイクラとICOって同じなのか?と言われると、でも違うんだよな…という気がします。

というわけで持ち出したのがこの3つ目の特徴です。
ようするにICOの方がゲームグラフィックスとゲーム挙動がリアルだという事です。

マイクラはブロック単位の世界ですから、ブロックの物理挙動?を持っており、我々の現実世界とは似てない点も多いです。

「風ノ旅ビト」では主人公はふわーっとジャンプして滑空できますが、つまり現実世界の挙動とは似てない点もあります。

ICOは”影”みたいな超現実的な要素は出てくるものの、主人公は人間にできる事を大幅に逸脱してない(ちょっとした高所から落ちてもノーダメとか、ジャンプ力が高いとかのちょっとした誇張はある)ですから現実世界と似てます。

ICOの方がマイクラよりすごいとか言ってるのではないです、ただ、何かしらこういう要素によってICOの体験とマイクラでの体験は味わいが違ってくるらしいというだけです。

マイクラはブロック世界にした代わりに全ての地形を自由に掘ったり盛ったりできるという点で、ある意味では驚異的な現実世界のシミュレーション能力を持っています。

グラフィックスがリアルになると、むしろマイクラより不自由になりがちです。
リアルなグラフィックスだと地面を掘るのもリアルな挙動が求められますが、これはプログラムとして難しくなりますし、コンピュータ性能も足りなくなったりします。

ICOを真似する場合、何をしたらNGなのか

ICOみたいなゲーム作りたいな~と思っても、ICOを完コピしたってしゃーないわけですから、なにか自分なりに変えてみようと思いそうです。
そこで、どこを変えたら何がマズくなるのか、想像できる範疇で考えてみます。

まあ、結局のところは実際にやって確かめない事には分からない面も多いと思いますが。

UIを表示する

UIが無い事で没入できる仕組みは上に書きました。

じゃあもしICOにUIを表示させたらゲームは崩壊してしまうのか?
私としては、UIが悪いというよりは、UIが必要になるほどの複雑なゲームメカニクスとかが良くないんじゃないかと思います。

プレイヤーはゲームにムキになると、急速に関心がフィクション世界からゲームメカニクス世界へと移っていきます。

プレイヤーがゲームにムキになるのはゲーム性が濃いからです。
ゲーム性が濃いというのは、ゲームの目標が強く設定されていて、目標達成のためのゲームメカニクスの強度も強い状態でしょう。

ICOはどちらかというと雰囲気重視でそんなにややこしいパズルがあったりはしないので、ゲームメカニクスが比較的弱いおかげでプレイヤーがムキにならないおかげでフィクション世界への没入を妨げません。

ICOにはUIが無いおかげで強制的にシンプルなゲームメカニクスになってます。

テキストを表示する

ICOはテキスト表示が極めて少ないゲームです。
まあ言うてもカットシーンでは少年の台詞の字幕が結構表示されたりしますが。

じゃあもっとテキスト表示を増やしたらダメなんでしょうか?

例えばドラクエみたいに白骨死体を置いて、それを調べると、「返事がない、ただのしかばねのようだ」とテキストが表示されるとかはどうでしょう?

しかし、ドラクエではドット絵だったからこうやってテキストで補わないと状況がハッキリしませんが、ICOくらいリアルなグラフィックスなら、白骨死体がまったく動く様子が無くてただのしかばねである事は見るだけで分かります。

また、「背景を調べると攻略に必要なヒントが表示される」とか「アイテムが拾えるかも」みたいな要素はゲームメカニクスを濃くします。
すると、プレイヤーは背景が綺麗とかどうとかよりも、何か落ちてないか?というゲームメカニクスに関心が移ります。

ICOにはそういう要素は薄いため、プレイヤーはずっと「背景綺麗だな~」とか言ってぼんやり眺めてられて、没入は阻害されません。

少年を別のキャラに差し替える

少年を別のキャラに差し替えたらなにかマズいんでしょうか?
たとえばおっさんにしたらどうですか?

まず、少年がおっさんになったらボーイミーツガール+ジュブナイルな要素が崩れます。
「絵本みたいな感じ」は失われるでしょう。

また、少年がキッズだから無思慮でも許された面もありました。
ヨルダの手を引っ張って、やや無理やり連れ回すみたいなのも、おっさんがやっちゃうと暴力的な感じがするとか、児童誘拐に見えるとか、色々と問題があります。

さらに、おっさんだとすると、R1ボタンで行う「オンソワ」とか言って呼びかけたりするボディランゲージがややワンパターンだとか、バリエーションが貧困みたいな気がしてくるかもしれません。

じゃあ、おっさんがダメなら少女とかならどうでしょう?
しかしこれも、少年がヨルダのねーちゃんを守るのは絵面がいいですが、少女がねーちゃんを守る絵面になると「ん?」となります。むしろヨルダが少女を守るべきだろ。

男と女というヘテロセクシャル感が気になるんだよなあ…という場合は、たとえばFF9のビビとか風ノ旅ビトの主人公みたいな人間じゃないかわいい系の少年?とかにする手もあります。

ヨルダを別のキャラに差し替える

逆にヨルダを別のキャラに差し替えたらどうでしょう?

先ほども悟空の例をあげましたが、おっさんとかに変えちゃうと、ぼーっと突っ立ってて意思が薄い感じが急に怖いとか気の毒な感じに見えてきて問題があります。

というか、ヨルダがメッチャ美人のねーちゃんである事は、ICOを特別な体験にするために絶対不可欠の要素に思えます。

「アウターワールド」ではヨルダの代わりになんかジャガイモみたいな顔した宇宙人と協力して脱出する事になりますが、あの宇宙人も見慣れるとかわいいかもですが、ぶっちゃけあれがヨルダだったら相当名作みたいな感じになってた可能性も否めません。

そういえばニコニコでアンチャーテッドの動画に「おっさん2人のICO」ってタグが付いてました。↓

ヨルダが何もしなくても許されますが、おっさんが何もしてくれない足手まといだと「この役立たずが…」感が急に出てくる点に注目です。

手を繋ぐ以外のアクションを追加する

手を繋ぐだけであんだけたのしいなら、他のアクションも追加したらどうだろう?

しかし、人間二人が行う動作でゲーム的に意味がありそうなものって他にはあんま思いつきません。
肩車とか…?でもどっちが肩車するの…?

ヨルダを増やす

ヨルダを10人くらいに増やしたらどうでしょう?

一人でも結構手間がかかるのに、10人もいたら、もうそれは保育士の苦労をシミュレートできるゲームみたくなりそうです。

だったらヨルダ達が勝手に付いてきてくれるようにしたらいいのでは?

そうなったらもうピクミンだろ!!

カメラを変える

ICOは固定カメラですが、普通のTPSカメラとかFPSカメラにしたらダメなんでしょうか?

まず、固定カメラである事で少年とヨルダが手を繋いで走り回ってる様子が色んなアングルから見られて楽しいという事があります。

FPS視点だと、たしかに少年の視覚を正確にシミュレートできるので、一見没入感が高そうですが、しかし少年は本来五感を持ってるのに対して、我々には視覚と聴覚くらいしか与えられてない点に注意です。

要するにヨルダと手を繋いでいるという状況がFPS視点だと見えないので何だか分からんくなっちゃいます。

じゃあTPS視点だと?と言うと、まあ「ワンダと巨像」や「人食いの大鷲トリコ」ではTPSカメラだったので、ICOもTPSカメラはアリっちゃアリかもですが、基本的にキャラの背後しか見えないので、手を繋いでる様子が見えにくい点に注意です。

ちなみに、固定カメラやTPSカメラはFPSカメラと違って明らかに少年以外の視点であるにもかかわらず、どうして自分を少年と同一化するような没入が可能になるんだ?という問題があります。

これはミラーニューロンの働きで説明が付くかもしれません。
人間は、他人が動いてる様子を見て、自分が身体を動かす時と同じ場所の脳神経の活性化が行われるそうです。

だったら漫画や映画でもキャラと自分の同一化は起きるのか?と言うと、ある程度はそうでしょう。

別の話ですが、「マンガ学」で書かれてましたが、マンガのキャラがカートゥーンみたいにシンプルに表現されてると、読者はキャラを自分と同一化しやすいそうです。スコット氏はこれを”仮面の効果”と呼んでます。

さらに、3Dアクションゲームでは自分のコントローラ操作の通りにプレイヤーキャラが動くので、あたかもキャラが自分の身体の延長上にあるように感じるでしょう。

つまり、ゲームはこの”操作してる感(身体動作のシミュレート)”と”ミラーニューロンの働き”と”仮面の効果”の三連コンボでプレイヤーとキャラの同一化現象が凄まじく行われているのかもしれません。

というわけで、必ずしもTPSカメラや固定カメラがFPSカメラより没入感が劣るかどうかは分からない話でした。

ステージを変える

せまっ苦しい城のステージなんかより、もっと広々としたワンダと巨像みたいなステージにしたらダメなんでしょうか?

ICOでは城から脱出するという正当な理由がありましたが、オープンワールドなら誰にも閉じ込められていませんから、そこに少年とヨルダを置いても、少年がヨルダの手を引っ張って連れ回すのは単なるエゴになってしまいます。

だからこそ、ワンダと巨像では、広い世界をプレイヤーの都合で連れ回す事が正当化できるNPCとして、アグロという馬が選ばれているわけです。

だったら、たとえば「風ノ旅ビト」にヨルダを出したらどうでしょう?
それはそれで面白そうですが、「風ノ旅ビト」は「結局NPCよりも勝手に他のプレイヤーとマッチングさせてマルチプレイさせた方がおもろいよね」みたいなゲームです。

ですからやるとしたらマルチプレイ要素は外して、代わりにヨルダを突っ込む形になりそうですが、まあそれはそれでやってみたら面白いかもしれません。

ただ、「風ノ旅ビト」の主人公も、自分の趣味で旅をしてるだけっぽいので、ヨルダを連れ回すならそれなりの理由付けが必要な気がします。

RPGツクールで再現する

ICOはゲーム世界が比較的現実世界に近いと思いますが、例えばRPGツクールでICOを再現したらダメなんでしょうか?

まあダメって事は無いと思います。
「ゆめにっき」は「L.S.D」をRPGツクールで再現してみよう、というようなコンセプトで作られていると思いますが、「L.S.D」よりダメになってるというわけではなく、別の味わいとして魅力が出ていると思います。

しかし、プレイヤーのゲーム世界への没入という意味では効果が減じるかもしれず、ひいてはプレイヤーとヨルダが同じ世界にいるという感覚も薄れるかもしれません。

スタイルを変える

ICOはかなりリアルなグラフィックスを志向していますが、じゃあICOのグラフィックスを様式化(スタイライズ)された感じにしたらダメなんでしょうか?

「風ノ旅ビト」はナラティブ的な意味でICOと並んで紹介されがちですが、こちらではグラフィックスは綺麗ではあるものの、リアル志向というよりは様式化されています。
つまり、様式化されてる事で一概に没入感が削がれるというものでは無いらしいです。

「ビデオゲームの美学」でも、行為のシミュレートの写実性はグラフィックスの写実性とは無関係と書かれています。

「マンガ学」ではカートゥーン的な記号的なキャラの顔が、読者とキャラの同一化をもたらす(仮面の効果)としています。
「風ノ旅ビト」の主人公はまさに仮面のような匿名的な顔をしています。

ちなみに、必ずしもICOが完全にリアル志向では無い点もあります。
例えばヨルダは全身発光しています。

オートセーブにする

ICOではソファがセーブポイントです。

セーブする事を、二人がソファに座って休憩する行為に見立てているのはかなりいい感じのギミックです。

が、結局は「セーブしますか? はい/いいえ」と表示されてしまうので、ゲームに没入しているところにこれが出ちゃうと、「セーブってなんだ?」と思ってちょっと冷めるかもしれません。

PS2ではメモリーカードに保存する仕組みだったので、オートセーブみたいな仕組みは基本的にありませんでした。

上田さんはインタビューで「今だったらオートセーブにする」的な事を言ってます。

世界が認めるゲームデザイナー・上田文人とはいったい何が凄いのか? ヨコオタロウ・外山圭一郎らと共に『ICO』に込められたこだわりを語り尽くす!【ゲームの企画書】

ですからICOをオートセーブにするのは特に問題なさそうです。

ヨルダを消す

そもそもこの記事の前提になってる話を覆すような案ですが、ICOからヨルダを取っ払ったらダメなんでしょうか。

いや、ダメって事は無いけど…それを言っちゃあオシマイでしょ…。

とは言え、ICOからヨルダを取っ払ったみたいな、RiMEというゲームがあるらしいです。

風の青に光が差せば『RiME』

これを遊んでみればどんな風になるのか分かるかもしれません。

おわり

というわけで、ICOみたいなゲームを作りたいなあと思ったので、ICOの特別なプレイ体験はどこから来るのか?という点と、ICOをアレンジするとしたらどうすべきか?という点について考えてみました。

こうして見ると、ICOの独特の魅力と言うのは、まるでトランプタワーのようにかなり注意深く繊細に全てを計算して作り上げた結果として生まれているようです。
つまり、やたら大量の縛りがあるようです。下手にアレンジするとあっけなく崩壊してしまいそうです。

ICOのフォロワーみたいなゲームってもっと一杯あって良さそうなのに、どうしてあんま少ないのか?という疑問もこれが答えなのかもしれません。
つまり、ICOみたいなゲームを作りたかったら完コピするしか無さそうだから、それだと作る意味無さそうという事です。

ところで上田さんはICOを作った後は、「ワンダと巨像」と「人食いの大鷲トリコ」を作ってますが、これらにはヨルダ的なキャラがいません。(ワンダではOPのカットシーンで死んでる女性がチラッと出てくるけどインゲームには出てこない)

これについては私は不満でした。
上田さん的にもICOのゲーム性はこれ以上広げようが無いと判断したから別路線に切り替えたのかもしれません。

私としてはICOと全然変わらんマンネリでもいいからヨルダ的体験をもっとしたいです。

「風ノ旅ビト」とかでもそうですが、世の中の流れとしては「結局NPCとの相互作用なんて限界があるんだから、それより人間と相互作用した方がおもろいよね」みたいな風潮を感じます。

まあそういう流れになって行くのも当然の事だと思いますが、でも「人間とマルチプレイするんだったらもうゲームなんかより実際に集まって野球でもやった方がおもろいやろ」という主張だってあるのではないでしょうか?

また、アニメキャラと相互作用したいんだったら、ゲームなんかよりvTuberにスパチャ投げて読んでもらう方がよっぽどおもろい(なにしろ中に人間がいるからゲームのAIなんかよりもよっぽど高度な知能でリアクションしてくれる)という話もまあ、あるでしょう。

ICOはゲームのNPCの到達点を示したと同時に、NPCの限界を露呈してしまって行き詰まりをもたらしているのでしょうか?

一人で悶々と考えてる分にはこの辺で行き詰ってしまったので、誰かなにか画期的なアイデアがあったら教えてください。