今回は、ゲームのフィクション世界(ゲームグラフィックス)とゲームメカニクス(ゲーム性)は、様々な面でトレードオフの関係にあるような気がする…という説について書いていきます。

フィクション世界とかゲームメカニクスと言った用語は、基本的に「ビデオゲームの美学」を参考にしてます。↓

前回のICOについての話も踏まえた内容になりそうです↓

ゲームのフィクション世界について

フィクション世界って何?と言うと、フィクションとしてのそのゲームの世界の事を指します。マリオで言えば、マリオが生きていて生活しているキノコ王国の世界です。

まず、ゲームグラフィックスが向上するにつれて、ゲームのフィクション世界の説得力が増していった話からします。

「ビデオゲームの美学」や「ハーフリアル」などのゲームスタディーズの本では、「ゲームはフィクション世界を持っている」という話が普通に出てきます。

「ハーフリアル」では、「どうしてドンキーコングのゲームではマリオは命が3つあるのか?」という話が出てきます。
「ドンキーコング」もフィクション世界を持っています。「ガールフレンドをさらわれたマリオがドンキーコングから取り返す」という世界観です。
しかし、ドンキーコングのフィクション世界は一貫してなくて支離滅裂な面があると、ハーフリアルの著者のユールは言います。
どうしてマリオの命は3つあるの?と人に訊いて回ったら、みんな「そうじゃないとライフが一つだけだとゲームが難しすぎるじゃん」というような事を答えたそうです。
このように、「そういうルールだから」みたいなルールの話を持ち出さないと説明できないフィクション世界は、一貫性が無いという意味で、「支離滅裂なフィクション世界」とユールは言います。

”支離滅裂な世界”とは随分な言いようだなと思いますね。
そもそも、「ゲームにはフィクション世界がある」なんて話は最近のゲームを知ってる現在の我々だからこそ、そう思えるわけで、ファミコンのスーパーマリオが出てたくらいの当時にそんな話をしてもたわ言に過ぎなかったかもしれません。

昔のゲームはかなり抽象的なものが多く、つまり純粋にゲームメカニクスだけを持っていました。

どれだけ想像力が豊かな人でも、PONGのフィクション世界を想像するのは難しいでしょう↓

「スペースインベーダー」は、まあPONGに比べると、「砲台を操作して異星人の襲来から地球を守る」という立派な世界観を持っていますが、やっぱりフィクション世界を具体的に想像するのはまだ難しいです。↓

「パックマン」も、キャラクターは生き物みたいにアニメーションしてて生きてるみたいに見えますが、マップはまだかなり抽象的で、パックマンのフィクション世界も想像しづらいです。↓

それに比べると「スーパーマリオブラザーズ」は画期的にフィクション世界としての表現が豊かで当時としては説得力があると分かります。↓

上に挙げたゲームに比べると、そもそも背景が真っ黒じゃなくて青空で、雲や木や山が表示されてる時点でかなりすごいですね。

マリオのフィクション世界が厚かった証拠として、コミカライズされてる事が挙げられます。1988年にボンボンで、1990年にコロコロでマリオのマンガ連載が始まりました。もしかすると初めてのゲームのコミカライズなのかもしれません。ゲームが充実した世界観を持っていなければ、コミカライズとかは不可能です。
まあマリオの漫画化と言っても、ゲームのマリオのシナリオなんて無いも同然ですから、漫画家は相当な想像力を駆使してある意味好き勝手に描くしかなかったでしょうけど。
それ以前は「ゲームセンターあらし」などの、ゲームを遊ぶプレイヤーについてのマンガが多かったようです。ゲームのフィクション世界が充実していくにつれて、ゲームそのもののコミカライズが増えていった事は興味深いでしょう。ちなみにボンボンではストⅡそのものの4コマ漫画と、ストⅡを遊ぶプレイヤーについての漫画が同時に連載されてました。

話を戻しますが、そういうわけで当時としては画期的にフィクション世界が凄かったマリオですが、現代のプレイヤーが見ると「コイン百枚でマリオが増えるってどういうこったよ?」とか言われて支離滅裂な世界って扱いをされちゃうわけです。

そもそも、マリオを作ってた当時の宮本さんは「一貫性のあるフィクション世界を作ろう!」なんて思ってなかったでしょう。
宮本さんにとってみれば、ゲームのフィクション世界というのはゲームメカニクスを”説明”するためだけに存在していたに過ぎません。

こちらに、いかにマリオの世界が説明だけで作られてるかについて分析している記事があります。↓

残酷で“説明的”な「スーパーマリオの世界」論 ~ドッスンは生きていて楽しいのか?~

例えば、ドッスンというキャラは何故あのようなデザインなのか?というと、
・顔が付いてる→つまり生きている→動くという事を説明している
・トゲトゲ→当たるとダメージを受ける事を説明している
・四角い→直線的に動く事を説明している
というわけで、見事に説明だけで作られたキャラだという事が分かります。

2チャンネルのスレで「ドッスンって生きててたのしいの?」とかいう話題があるそうですが、もちろん宮本さんはドッスンの存在意義なんて考えて生み出したわけではありません。説明として分かりやすくするために顔を付けてみただけです。(軽薄に命を生み出してしまう)

完全に説明的な世界にする事で、ゲームプレイヤーはドッスンを一目見ただけでそのゲームメカニクスを理解することができます。フィクション世界がゲームメカニクスを説明してくれるからです。

当時のドット絵の記号的なゲームグラフィックスの頃は、まだまだゲームのフィクション世界について真剣に考える人はいませんでした。「ドッスンって生きててたのしいの?」とか言う人もいなかった訳で、「ゲームのフィクション世界の一貫性」とか言い出す人もいませんでした。

しかし、これ以降、凄まじい勢いでゲームハードの性能は向上し、ゲームグラフィックスはポリゴンによる3Dグラフィックスになっていき、ゲームは見た目も写実的に進歩していって、空間表現も現実に近づいていきました。
ゲームグラフィックス表現が現実的になるほど、ゲームのフィクション世界の説得力も増していくようです。

例えばスーパーマリオギャラクシーでのドッスンを見てみましょう↓

ファミコンの頃に比べると、超リアルな世界で超リアルなマリオが昔のデザインのまま超リアルになっちゃったドッスンに襲われています。

ファミコンの頃は全然気になりませんでしたが、こうしてリアルなグラフィックで見ると、まるで本当に存在するような世界に見えますから、たしかにドッスンの人生とか余計な事まで想像してしまって、「ドッスンって生きててたのしいの?」とか思っちゃうのも分かりますね。

こうなると、ゲーム制作側も「たしかにここまでゲーム世界がリアルになってしまった以上、ドッスンみたいなキャラクターは生物としてリアルじゃないからおかしい」と思って、例えばドッスンから顔を無くして、生き物じゃ無くしたとしましょう。
そうすると、たしかにドッスンを見て「生きててたのしいの?」とか余計な心配をしなくてよくなりましたが、しかしせっかく顔が付いてる事でゲームメカニクスが分かりやすかったメリットも失ってしまいます。

つまり、結果的にフィクション世界のリアリティのために、ゲームメカニクスの説明性が犠牲になったという事です。
グラフィックスがリアルになるとこのようなケースは結構起きそうです。

これが一つ目の、フィクション世界のリアリティとゲームメカニクスの説明性のトレードオフです。

別の例で言うと、「アウターワールド」ではスーパーファミコンながらにかなりリアル志向のグラフィックスですが、地面に落ちている拳銃は1ドットの点滅だけで表示されています。
正直言ってほぼ気付きません。しかし、これに気付かないとゲームは詰みます。
「だったらもっと矢印とか表示して目立たたせてくれよ」と思いますが、あくまで写実的な世界を志向しているので変にゲームっぽく強調したくなかったのでしょう。これが宮本さんだったら絶対メッチャクチャ誰でも気付きやすくしてくれると思いますが。
これも、フィクション世界のリアリティのためにゲームメカニクスの説明性が犠牲になっている例です。

ちなみに、「ハーフリアル」では、ゲームメカニクスが完全に現実と一致していれば、フィクション世界は単にリアルにしていくだけで全てが説明されるみたいな話があります。
例えばバトルフィールド1942というFPSゲームでは、1942年の日本とアメリカの戦争というフィクション世界を持っています。そして、島の地形を見れば、現実にここで戦争するならどこが攻めやすいか、どこが守りやすいかみたいな事を考えますが、そのような現実的な戦略は、そのままゲームでの戦略に当てはまります。つまり、このゲームではフィクション世界とゲームメカニクスが一致しているという事です。

まあ要するに、ゲームメカニクスが現実世界と同じような場合、フィクション世界のリアリティを上げるほど両者は一致するので、そういう時はトレードオフにならなくて済むと言えるでしょう。
しかし、「ゲームメカニクスが現実と同じ」というのは、つまりそれはもうゲームというよりもはや現実のシミュレーションだよね?という話にもなってくる気がします。

逆に、ゲームメカニクスが現実の世界と似ていないのに、グラだけをやたら写実的にしてしまうと問題が起きがちという事になります。

昔のゲームメカニクスのまま、グラフィックスだけを進歩しようとしても奇妙な事になる

シリーズもののゲームにありがちですが、ゲームメカニクス自体は昔と同じだけど、グラフィックスだけ進化させちゃうと色々とツッコミどころが発生しがちです。
グラフィックスが向上する事でフィクション世界の説得力が増しますが、そうなると逆にフィクション世界が一貫していない事が気になり始めます。

これは要するにグラフィックスがリアルになるとゲームのお約束が通じなくなってくるみたいな話です。

例えばFFの戦闘について考えてみます。

ファミコンの頃のFFの戦闘は、まあ全てが見立てで出来ていたというか、TRPGの戦闘をコンピュータでやってるみたいな感じだったので、そこに表示されるキャラクターも、言わばチェスの駒のような記号でしかありませんでした↓

シリーズが続くにつれて、グラフィックスはどんどん進歩していきましたが、戦闘システムは基本的にはあんま変わりませんでした。
FF10くらいになってくると、グラフィックスのリアルさと戦闘システムの乖離は著しくなってきます↓

グラフィック的にはあたかも本当に存在する世界でティーダたちが戦いを繰り広げているように見えますが、しかしどうして律義に一人ずつ順番に攻撃しているのか、もはや謎です。
もっと必死こいて全員でガンガン間を空けず戦えよとか思っちゃいます。

「どうして順番に攻撃してるの?」と言われたら、「RPGはそういうもんだから…」とでも答えるしか無いでしょう。これは、ユールが言う所の、支離滅裂なフィクション世界です。

というわけで、FF12以降は順番を守るのをやめて、みんなでガンガン殴って戦うようになります。アクション性も増し始めて、実際に戦っているような感覚が強い戦闘システムになって行きました。

FF7リメイクなんか、もはや元のゲームと全然戦闘システムが別ゲーですが、つまりあんだけグラがリアルになっちゃうと、元ゲーの戦闘だと違和感が出すぎちゃうので、すでにあの頃の戦闘システムには戻れなくなったという事でしょう。

FF3やFF4あたりはゲームシステムは大体そのままでリメイクで3Dになっちゃったゲームなので、プレイし比べてみると、フィクション世界のリアリティの違いがどのようにゲームプレイに影響するかが分かるかもしれません。

ドラクエでも、今では相当グラフィックがリアルになったにも関わらず、いまだに勇者が人の家に勝手に入って壺やらカボチャやらを破壊して目ぼしい物を盗んでいく行為は、今となっては見た目がかなりヤバいです↓

つまり、ゲームのグラとゲームメカニクスは、それぞれが独立しているわけでは無く、密接に関係している事が分かります。
ですから「昔売れたゲームを、グラだけリアルにして次回作にしようぜ!」みたいな短絡的な発想は通用しないかもしれません。
グラがリアルになったらそれ相応の現実的なゲームメカニクスが求められるからです。

なんでもかんでもグラをリアルにすりゃいいってもんじゃなく、こういうゲームメカニクスだったらグラは敢えてチープにする、あるいはドット絵にした方が向いてるな。みたいな判断も当然あり得るはずなのです。

たとえば「塊魂」のようなゲームは、もしグラをリアルにしてたら人を巻き込む時とかに余計な想像をしてしまって怖かったでしょう。↓

マイクラはグラフィックスをチープにする事でゲームメカニクスをリッチにしている

さて、ゲームのグラフィックスは全体的な傾向として、むやみにリアルになって行った感がありますが、そんな中いきなり登場したのがマインクラフトです。

今ではマイクラは累計販売数2億本を超えています。

しかし、マイクラについて何も知らん人がスクショを見ても、なんでこれが2億本売れてるのかまったく理解できないかもしれませんね。

マイクラのグラフィックスはパッと見は相当ローポリというか全てがブロックで出来ていて、チープに見えます↓

先ほどのドラクエやFFの例では、ゲームメカニクスは従来のお約束のまま、グラだけをリアルにしてしまったので、フィクション世界の一貫性が怪しくなってました。

しかし、マインクラフトはゲームメカニクスを優先して、チープなグラフィックスを敢えて選択しました。

というか、マイクラは元々、マルチプレイヤーで世界のブロックを削ったり盛ったりして遊ぶゲームとして作られたので、マイクラのフィクション世界は”ブロックの世界”にしたわけです。
ですから、キャラクターもブロックな感じですし、敵キャラや羊や豚とかも全部ブロックな感じです。

FFとかはグラを安直に現実世界に寄せたせいで世界の一貫性が気になっちゃうようになりましたが、マイクラのグラは見れば分かる通り現実には寄せてません。
マイクラのフィクション世界はブロック世界なので、実はマイクラのグラはブロックの世界を100%忠実に再現しているという意味で、ある意味100%リアルです。
そして、マイクラのフィクション世界は一貫しています。

「どうしてマイクラの世界はブロックで出来てるの?」と訊かれたら、「それはブロックの世界だからだよ。だって住んでる人間や生き物もみんなブロックだろ?」と答えられます。これは支離滅裂な世界ではありません。なぜならそういう世界だからです。フィクション世界は一貫してます。ゲームメカニクスをそのままフィクション世界化したのだから当然です。

さらに、これも当たり前ですが、マイクラのフィクション世界はゲームメカニクス世界と完全に一致しています。

細かい事を言うと、マイクラのキャラはシンプルな立方体の組み合わせであるおかげで、見た目とコリジョン判定を完全に一致させることができています。
普通のゲームでは見た目と実際のコリジョンは異なりますので、ちゃんとエイムして撃ったはずなのに当たらない!といった事が起きがちですが、マイクラではエイムした通りに厳密にヒットします。

さらに、マイクラでは水や溶岩などの流体や、雨や雪、雷などの天候などと言った世界のシミュレーションがリアルタイムかつ大規模に実行されています。(シミュレーション距離やティック領域の設定による)

そもそも地面の土を掘ったり盛ったりする事もそうですが、このような処理はマイクラがブロックの世界だから可能だった事です。
リアルなグラフィックスの世界でこれをやろうとしたら、もっと解像度の高い、緻密な処理が必要となりますし、見た目的にも水がブロック単位で広がっていくのでは説得力がありませんから、メッチャややこしくて処理負荷の高い流体シミュレーションを実装しなきゃ…などと言ってとにかくひたすら困難なので、普通はこういうのは実装されません。
マイクラのブロック世界の解像度だからかろうじて実行可能だった処理です。

という事は、マイクラはチープなグラのブロック世界だからこそ、むしろリアルなグラのゲームではできないような現実的な挙動を持った世界のシミュレーションが実装できたわけです。

というわけでこれもトレードオフの話でした。マイクラではグラをチープにした事で、ゲームメカニクスをリッチにできました

ちなみにマイクラにインスパイアされたドラクエビルダーズでは、安直にキャラだけをリアルにしてしまいました。

こうしてしまうとフィクション世界は急激に一貫性を失い、「何でこいつらの世界はブロックなんだ?」という疑問が頭をもたげてきます。

また、マイクラ以降もサンドボックスゲームは色々出てますが、やっぱり安直にグラをリアルにしたりしていて、ですから地面を掘ったり盛ったりするなどの自由度を失い、グラは綺麗でもゲームメカニクスとしては劣化してるじゃねえかみたいな風になりがちです。

やっぱりここでもグラが綺麗になるとゲームメカニクスが貧弱になるというトレードオフが見られます。

グラフィックスの綺麗さを見せたければウォーキングシミュレータがベスト説

Unreal Engine 5の登場で、極めてリアルなグラが表現できるようになった話は毎回してますが、私に言わせれば、そのようなグラをプレイヤーに見せたいのなら、もはやゲーム性を排除してウォーキングシミュレータにするのが一番いいのでは?と思います。

ここで「ゲーム性とは何ぞや?」という話になりますが、まず「ビデオゲームの美学」では、「ゲームとは美的行為をもたらすようにデザインされたもの」という説が書かれています。
つまり、プレイしているのを見てると「センスあるなあ、カッコいいなあ」と思って自分もやりたくなるようなものがゲームというわけです。

それでいうと、そのゲームを上手くプレイするほどカッコよく見える場合はゲーム性が高い、と言えるかもしれません。

そういう意味では、基本的にゲーセンのアーケードゲームの格ゲーやシューティング、音ゲーなどはゲーム性が高いと言えそうです。また、FPSやバトロワゲーもゲーム性が高いでしょう。

さて、ユールの「ハーフリアル」では、「Quake3のプレイヤーは最初はゲームのグラの美しさを楽しむけど、ゲームに慣れてくるとせっかくの綺麗なグラのグラフィックス設定を落としちゃいがち」という話が書かれています。
どういう事か?というと、プレイヤーは初めてプレイするゲームはキョロキョロと周りの風景とかを眺めたりするので、綺麗なグラとかに興味が向いてますが、ゲームを理解してくると、風景とかはゲームメカニクスに何の関係も無いと分かってどうでも良くなってきて、だから少しでもfpsを上げて勝ちやすくするためにグラフィック設定を落とすわけです。

要するに、Quake3のようなゲーム性が高いゲームだといくらグラが良くてもプレイヤーはすぐにグラとかどうでも良くなるから意味無いという話になります。
これも、ゲームメカニクスとグラのトレードオフと言えるかもしれません。

また、前回のICOの話でも書いた事ですが、プレイヤーはゲームに詰まったりゲームオーバーを繰り返すと、そのゲームにムキになり始めるので、やっぱりゲームのグラとかどうでも良くなってきます。
というかそうなるとむしろリアルなグラは2Dドット絵のゲームとかに比べてやたら見辛いだけで、ゲームプレイの上ではデメリットしかない、みたいな話にさえなってきます。
やっぱり、ゲーム性が高いとグラが無意味になるトレードオフです。

さらに、UndertaleでGルートをプレイするプレイヤーのように、ゲーム進行にムキになってるプレイヤーはゲームメカニクスの方に没入しているため、フィクション世界への没入が薄れて、非人道的な選択を平気でするようになったりしがちです。
これはゲームメカニクスに没入してしまうとフィクション世界がないがしろにされてしまうというトレードオフです。

そんなわけで、本当に綺麗なグラをじっくり見せたいんだったら、極端な話、ゲーム性を無くすのが一番の方法だと言えるでしょう。

つまり、グラがリアルになるほどウォーキングシミュレータが最適だ!という話になってきます。
ウォーキングシミュレータというのは要するにほぼマップを歩き回るだけのゲーム群を指しますが、グラの美しさや何やらで人気になった作品がSteam上に色々あります。
たしかにDear Estherのようなゲームを見るとグラは綺麗ですが、ぶっちゃけメジャーな作品でも同じくらい綺麗なグラのゲームはあります。

私が思うに、ウォーキングシミュレータのグラが特別綺麗というよりも、むしろウォーキングシミュレータだからこそゲーム性が高いゲームよりもプレイヤーが風景をじっくり眺めて注意を払ってくれるから、美しさを感じ取ってくれるのだと思います。

まあ、完全にゲーム性を無くす所まで行かなくても、例えばICOはシンプルなパズルを解くだけで、ゲーム性としては低いですが、だからこそプレイヤーをフィクション世界に没入させる事に成功しています。

他にも、「デトロイト:ビカムヒューマン」も、何をしてもゲームオーバーにならないという意味で、やっぱりゲーム性は低い気がしますが、それもフィクション世界への没入に貢献しているでしょう。

そういえば、UE5のデモとして、The Matrix Awakensというマトリックスのデモゲームが公開されました。

正直言って、このデモにゲームのグラが写実に近づく事の功罪が完全に現れてるなあと思いました。

動画を観ると、たしかにビックリするほど全てがリアルです。
最初の方で真っ白な空間でキアヌが喋ってる所なんて、私はてっきりそこは実写だろうと思いましたが、実は全てがリアルタイムレンダリングだったらしいです。

しかし、グラがリアルでもゲームとしてはどうですか?
このゲームで出来る事は、カーチェイスのシーンでスティックでターゲットを選んでR2で射撃する事だけです。いくらデモとは言えビックリするほど貧弱なゲームメカニクスです。

私が思うに、あんまりプレイヤーに好き勝手にさせるとせっかくのリアルな世界が簡単に破綻してしまいますから、プレイヤーにこの程度の事しかさせられなかったのではと思います。(じゃあ何のためのゲームなのか?)
フィクション世界のリアルさを守るためにゲームメカニクスが犠牲になるというトレードオフです。

それで、デモの終了後はプレイヤーは自由に街を歩き回れます。
要するにこのゲームはウォーキングシミュレータなのです。そして、UE5のフラッグシップデモがこのような内容なのは、今後のリアルグラのゲームの行き先を暗示しているように思えます。

つまり、マトリックスデモはデモだからゲーム性が薄いというよりは、グラが完全にリアルになるほど、ゲーム性は失われていく宿命的なトレードオフ関係にあるのかもしれないという事です。

結局のところ、ゲームのグラがリアルになるほど、いわゆる昔ながらのゲームのお約束みたいな事は全てがどんどん支離滅裂に見えてきます。
結果的に、グラに合わせてゲームメカニクスも現実世界と一致させる方向に圧力がかかっていきます。

すると、ゲームは内容の自由度を失っていき、最終的には単なる現実のシミュレータと化していきます。(まさにマトリックス!)
現実シミュレータで出来る事なんてせいぜい散歩して回るだけです。
ですからこのマトリックスデモもウォーキングシミュレータになってるわけで、写実グラで作るならウォーキングシミュレータが一番!という結論に至るわけですね。

まあ何も考えずに短絡的にグラをリアルにしていく事の弊害の話でもありました。

キャラのグラがリアルだと親近感が無くなる

別の観点からも、グラがリアルになる事の弊害を考えてみます。

まず、ぶっちゃけリアルなグラは2Dドット絵グラよりも見づらいです。
先ほどのFF3とFF10の戦闘画像をもう一度見てみてください。

FF3の方は、味方が4人いて、敵が3体いて、海で戦ってる事が一目で分かります。
キャラクターはドット絵で記号的に表現されているので、極めてゲームの情報が伝わりやすいです。
と言うよりは、むしろ”ゲームの情報を説明するためにグラフィックスを使っている”という感じさえあります。
また、ゲーム画面にはキャラクター以外に敵の名前などの文字表示やHP表示もありますが、キャラがドット絵の記号で表示されてるおかげで、記号も文字も両方とも左脳が認識をつかさどっているので、一瞬で状況把握できます。

それに対して、FF10の方は、敵が何体いるのかもなんかよく見ないと分かりません。
リアルなグラですが、見辛いです。戦闘の情報を伝えるという意味では劣化してるかもしれません。
グラがリアルになるとゲーム情報の説明能力が失われるという感じがします。
そして、写実的なグラフィックスは記号というよりも画像になります。画像を認識するのは右脳の働きですが、右脳は文字とかは読めません。つまり、FF10のように写実的なグラフィックスと色々な文字情報が同時に表示されているとパッと見で把握するのが難しくなります。

次に、ドット絵のキャラとリアルなキャラを見比べてみましょう。

いつものように「マンガ学」を持ち出しますが、マンガ学では「キャラがカートゥーンだと読者は主人公と一体化できる。キャラが写実的なほどそれは他人に見える」とあります。

マザー2のネスのようなシンプルな顔のキャラなら、プレイヤーは容易に一体化して没入出来ます。
しかし、デトロイトのコナーのようなリアルすぎるキャラだと、プレイヤーは自分をコナーと同一化できません。
と言うのは、コナーの顔が自分とは全然似てないから全くの別人である事は明らかですが、ネスは自分と似てるとか似てないとかそういう問題じゃないくらいシンプルな顔だから、まあこれは自分なのかもしれない。と思えます。

まあ、同一化できないとしてもそれはそれでプレイヤーはコナーをロールプレイしてなりきろうとしますから、大きな問題では無いかもしれませんが、単にグラがリアルなだけでそういう弊害も起きるという事です。

たとえば風ノ旅ビトでは主人公キャラが仮面をかぶっているような表現(銀河鉄道999の車掌的表現とも言う)をして問題を回避しています。

そういえば、ドラクエでは主人公が勝手に台詞を喋らない事で有名ですが、これはプレイヤーが主人公と同一化できるようにする工夫でした。
しかし、ドラクエ11とかになると主人公キャラがかなり現実的なグラで存在感を出してきているので、プレイヤーは同一化というよりはなりきりの意識になるんじゃないかという気がします。しかし、なりきりだとするとそれはそれで「何でこいつこんなに無口なんだろ…」みたいな疑問が出てきそうです。

ドラクエにはスライムが主人公の「スライムもりもりドラゴンクエスト」というシリーズがありますが、たしかにスライムみたいなシンプルな顔のキャラの方がプレイヤーが同一化しやすいだろうと思います。

おわり

というわけで、色々な観点からゲームメカニクスとフィクション世界のトレードオフについて書いてみました。

そもそも論として、ゲームのフィクション世界が真面目に論じられるようになったのは最近のゲームのグラの急激な進歩のおかげで、昔はゲームは抽象的だったのでフィクション世界なんて真面目に捉える人はいなかったという話をしました。

ゲームのグラの進歩のおかげで、フィクション世界の厚みは凄い勢いで増していきましたが、そのせいでかえってゲームメカニクスがフィクション世界を支離滅裂にしてしまっているように感じる問題が生まれてきました。
元々はゲームメカニクスを説明するためだけに作られていたフィクション世界が、むしろリアルになり過ぎて存在感が大きくなりすぎてゲームメカニクスの方を制限し始めたという事です。

最近ではゲームがメタバースの文脈で捉えられ始めたりしてますが、それはもはやゲームのフィクション世界がもう一つの現実と言っていいくらいリアリティを増している事と無関係では無いでしょう。

この先は、完全に現実と同じリアリティを持ってしまったフィクション世界に合わせて、ゲームメカニクスも現実のシミュレートとして発展していく気がします。

その果てにあるのは現実の完全なシミュレーションですが、それってもはやゲームじゃ無くないですか?
それは言わばもう一つの現実とでもいうべきもので、要するにそれこそがメタバースなのかもしれませんね。

とまあ、これは何も考えずに安直にゲームのグラをリアルにしていった果てにある世界の話ですが、インディーゲームとかではちゃんとゲームデザインにマッチしたグラやフィクション世界を用意しているものも多いです。

グラが写実的だとフィクション世界の一貫性についてゴチャゴチャ言われるハメになりますが、逆に言えば2Dドット絵にすればそんな事は一切気にしなくてすむメリットさえあると分かりました。

また、マイクラがやっているように、無理にフィクション世界を現実世界に寄せなくても、ゲームメカニクスとマッチした世界観を用意して、「このゲームはこういう世界なんですよ」と提示する事でフィクション世界に一貫性を持たせる方法もあると分かりました。(しかし写実的なグラを採用してしまうと”こういう世界”という言い訳が通用しづらくなる点に注意してください。例えばドラクエビルダーズでキャラだけリアルにしてしまった話など)

この記事に書いたような、フィクション世界とゲームメカニクスのトレードオフがある事を考慮しつつ、自分の作りたいゲームではどのポイントを攻めると上手く行くだろうか?と戦略的に選んでいくとよいのではないでしょうか?