元々任天堂でWiiの企画開発を担当していた玉樹真一郎さんが書かれた「「ついやってしまう」体験のつくりかた」という本を読んだので内容とかをメモします。

これは”プレイヤーの心を動かす体験デザイン”についての本です。

直感のデザイン

第一章では”直感のデザイン”についてです。
人は何故、ゲームを”ついやって”しまうのか?

著者の方は、マリオを見た事ない子供達にマリオの最初の画面を見せてみて、「これ面白そう?」と訊いてみたら、「面白くなさそう!」と答えたそうです。
我々はマリオの画面なんか今まで死ぬほど観てますから、初見の人の気持ちなんてもはや想像ができませんが、言われてみるとマリオの最初の画面にはほとんど要素が無くて、ほぼ空白です。面白そうには見えないかもしれません。

むしろパックマンとかの方が画面にぎっしり要素が詰まってて面白そうかも。

そんな面白くなさそうなマリオですが、ただし子供たちは「右に行きたい!」とも言ったそうです。

つまり、マリオの最初の画面を観ると、プレイヤーは「右に行けばいいのかな?」と”仮説”を立ててしまう。そう思ってしまうようにデザインされているというわけです。

しかし、「右に行きたいなあ」とプレイヤーが思っても、どうやれば右に行けるのかプレイヤーは最初分からないかもしれません。
プレイヤーが持ってるのはコントローラです。

プレイヤーはコントローラの十字キーを見て、「これ押したら右に行けないかなあ?」とついつい試してしまいます。これが”試行”です。

すると実際にマリオが右に移動して、画面がスクロールしていって左からクリボーが出現します。

プレイヤーは自分が仮説を立てて試行してる事が正解なのか分からず不安な状態でしたが、こうして明らかにゲームが進行した事で、自分がやった事は正しかったんだ!と”歓喜”します。

このように、プレイヤーが直感的に”仮説”を立てて”試行”して、”歓喜”するように仕向けるのが”直感のデザイン”というわけです。

ちなみに、実際問題マリオの最初の画面はどうやってプレイヤーに「右に行きたい!」と思わせてるのかと言うと、まずマリオは画面の左側にいて、右を向いてます。
これだけでかなり「右に行きそうだな~」と思わされます。

さらに、背景を見ると左側には山があって、塞がれてるっぽい雰囲気があります。
右の方には雲や草があって、プレイヤーの視線を右へと引っ張っている…そうです。

マリオのでっかい鼻も、まるで「右に行け~」と主張する矢印かのごとく、マリオが右を向いてる事を強く主張しています。

そういうわけでなんとなくプレイヤーは「右に行きたいな~」と思わされます。

マリオの最初の画面がシンプルで面白くなさそうなのは、パッと見が面白そうにするよりもとにかく「右に行きたい」と思わせるデザインに全振りした結果だそうです。

もしも、マリオの画面がリッチでゴチャゴチャ要素を持ったら、「面白そう」な画面にはなるかもしれませんが、プレイヤーの気が散って、「右に行きたいと思え」というメッセージが弱くなるでしょう。

”面白そうさ”よりもプレイヤーの最初の直感のデザインを優先する…それほどまでに一番最初の直感のデザインがゲームにとって何よりも一番重要というわけです。というのも最初で失敗したらプレイヤーは遊ぶのを放棄してしまいかねないからです。

ゲームは面白そうだから遊ぶのではない!プレイヤーは自分が直感するという体験が面白いからそのゲームを遊ぶのだ!という事だそうです。

例えば交通標識もマリオの画面と同じく、非常にシンプルなデザインです。

もし交通標識がリアルな写真とかだったら、標識のメッセージは伝わりにくくなるでしょう。

私はかねてから、ゲームのグラがリアルだとゲームデザインに悪影響がある(要するに面白くなくなる)という感じがしてましたが、これがその理由の一つかもしれません。

例えばUE5のマトリックスデモが画面はリアルですが、もはや情報量が多すぎてプレイヤーが何をしたいと思うかコントロールするのは難しいです。

プレイヤーは「あの自転車、自分が持ってるのに似てるなあ」とか、「あの自動車いくらくらいすんだろ…」とかあらぬ所に気が散ってしまいそうです。

他の例で言うと、たとえばWindowsはVistaではやたらグラデーションとかが多用されたリッチなUIデザインでしたが、Windows8では一転してシンプルなフラットデザインになりましたよね。
必ずしもリッチなグラフィックスがデザインとして優れているとは限らない例だと思います。

ところで、プレイヤーは自分が試行錯誤して学んだことは、”死ぬまで信じる”そうです。
マリオのボスのクッパの倒し方は、「画面右端の斧を取ってクッパを落とす」という、ちょっと不自然な方法ですが、これもプレイヤーが最初に学習した「とにかく右に行く」という信念を守るためにわざわざそうしてるんだそうです。

驚きのデザイン

第二章の話は”驚きのデザイン”についてです。
人は何故ゲームに”つい夢中に”なってしまうのか?

先ほどの”直感のデザイン”は強力ですが、そればっかりだとプレイヤーは段々疲れて飽きちゃうという問題があるそうです。

ドラクエをやってると、いきなり”ぱふぱふしてくれるお姉さん”が出てきます。
それまでのストーリーがずっと真面目だったので、プレイヤーはドラクエは真面目なゲームだと思い込んでた時にぱふぱふがぶっ込まれるので、プレイヤーはメッチャ驚きます。

プレイヤーは予想だにしない事が起きると、当然驚きます。すると脳が活性化されます。
つまり、ゲームの飽きが回避できるわけです。

流れとしては、まずプレイヤーはそれまでのゲームプレイでドラクエがひたすら真面目なゲームだと”誤解”します。次にプレイヤーは誤解に基づいて”試行”します。その結果、ぱふぱふという誤解を裏切るような事が起きて”驚愕”します。
これが”驚きのデザイン”です。

プレイヤーはそれまで散々、仮説→試行→正解の直感のデザインを経てきて飽き飽きしてる状態なので、仮説→試行→間違い!という驚きを入れる事で飽きが回避できます。

ドラクエではこのように、驚きの要素を入れまくる事でプレイヤーは飽きずに夢中でプレイし続けるようになってるそうです。

それで言うと、まどマギで1~2話までで普通の魔法少女アニメかと思わせておいて、3話でマミさんが死亡しちゃうのも驚きのデザインかもしれません。

ただし、この驚きのデザインは「○○と思わせておいて、からの~」という流れが必要なので、流れを構築するのが面倒という問題があります。

著者によると、そういう流れをわざわざ組まずとも、いきなりタブーな表現をぶっ込めばプレイヤーはそれなりに驚いてくれるそうです。

タブーの例として10個挙げられてます。

ポジティブなモチーフ 本能的に欲しい物

1、性のモチーフ 肉体、健康美、恋愛沙汰、婚姻、性器、性行為、出産、赤ちゃん、繁殖

2、食のモチーフ 食べ物、飲み物、食べる、飲む、料理、食材加工、飲食、料理の匂い、音、シズル感、収穫、狩り、飢え

3、損得のモチーフ お金、財、お金、財の増減、お金持ち、貧乏、競争、勝負、贈与、交換、羨望、嫉妬

4、承認のモチーフ 仲間、友情、家族、血のつながり、懐古、流行、あるある、役割、職業、肩書、国家、階級、上下関係、自己承認感、全能感

ネガティブなモチーフ 本能的に忌み嫌う物

5、けがれのモチーフ 汚物、排泄物、腐ったもの、菌の繁殖、醜さ、グロテスクな生物、非道徳なふるまい、犯罪、悪、悪魔、悪魔憑き、呪い

6、暴力のモチーフ 喧嘩、肉体的暴力、殺傷武器、兵器、大量殺戮、絶滅、略奪、搾取、蔑み、差別、自由の剥奪

7、混乱のモチーフ 誤り、まちがい、矛盾、不条理、記憶喪失、異世界、多量の情報、情報がない、天変地異、物理法則の崩壊、動きが高速、大きさが異常

8、死のモチーフ 血、怪我、死、絶体絶命、死が近い状況、死体、ゾンビ、弔い、墓、幽霊、異形の存在

その他のモチーフ

9、射幸心と偶然のモチーフ 賭け事、くじ、幸運を祈る、偶然、思いつき、アイデア、幸運が舞い降りる

10、プライベートのモチーフ ユーザ自身の秘密、ユーザ自身のお金、ユーザ自身の過去、ユーザ自身の性格やセンス、ユーザ自身の身辺情報

以上です。
プライベートのモチーフについては、例えばドラクエで自分が主人公の名前を付けるのは、プレイヤーの名付けセンスがモロに出てしまいますし、ドラクエ5での花嫁の選択は、プレイヤーの女性の好みがモロに出てしまいます。そういうプレイヤー本人のプライベートがモロに出てしまうモチーフという事です。

物語のデザイン

第三章は”物語のデザイン”についてです。
人は何故ゲームの体験を”つい誰かに言いたくなって”しまうのか?

私は読んでてこの章が一番面白かったです。
この章では要するにゲームのナラティブについて語られています。

そういえば数年前、「ナラティブって何だよ?」と言う話を巡って議論が勃発してましたね。
「ビデオゲームの美学」を書かれた松永さんは、「ナラティブを分解する——ビデオゲームの物語論」の中で、ナラティブの正体について端的に書かれています。

プレイヤーについての物語は、まさにこの観点から説明できるように思われる。つまり、物語のシミュレーションにおいてはプレイヤー自身のゲームプレイ行為が物語内容の出来事を構成する要素として見立てられ、そしてそのシミュレーションが写実的であれば、その物語内容は自分自身にとってリアルに感じられるものになる。CEDEC セッションにおいて(「ナラティブ」と言われていたもの、「キャラクタとの同一化」や「虚構世界への没入」といった語彙で説明されていた事柄の内実(の少なくとも一部)は、このようなものではないか。

https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/243574/38daecd3b17498c26ff1b89983533fef?frame_id=726294

要するに、プレイヤーが自分の操作(ゲームプレイ行為)によって、ゲームメカニクス上の出来事が起きて、それがフィクション世界上の物語として見立てる事が可能な時、物語のシミュレーションが成立する。つまりナラティブ(プレイヤー自身が主人公の物語)になるという事です。

具体的にはどういう事や?というと、具体例を挙げるのがけっこう難しいのですが、例えばvTuberの兎田ぺこら氏が、マイクラ実況でわざわざ村人をゾンビにしてからゾンビから回復させて、そんで最終的にミスッて死なせてしまう一連の流れを面白ストーリーとして切り抜いた動画がありますが、これは視聴者からするとマイクラの主人公キャラの物語と言うよりも、完全に全部プレイヤーのぺこら氏がやらかしたストーリーだと感じますよね。
当たり前っちゃ当たり前ですが、ゲーム上で起きた一連のストーリー(ストーリーと言ってもあらかじめゲームに埋め込まれたシナリオでは無く、あくまでプレイヤーの一連のゲームプレイがあたかも物語に見立てられるという状態)が、ゲームキャラがやったというよりゲームプレイヤーがやったと感じるという事は、”プレイヤーについての物語”なわけですから、実はこれは相当なナラティブだという事です。

それはいいんですが、松永さんはゲームの哲学的な面を問題にしていて、ゲーム制作の方法論とかについて書いてるわけではないので、じゃあ結局どうやればナラティブなゲームが作れるのか?と言う話は書かれてません。

で、話を「ついやってしまう」体験のつくりかた」の本に戻しますが、この本ではナラティブを作るための方法論について触れられているのですごいです。

著者によると、ゲームデザイナーはいわゆる小説みたいなフィクションのゲームシナリオでプレイヤーを感動させようとしてるわけでは無いそうです。
そのようなフィクションのゲームシナリオは、あくまでプレイヤー自身が成長する体験(プレイヤーについての物語=ナラティブ)をデザインする手段として用意されてるに過ぎないそうです。

さらに、その手段としてのフィクションのゲームシナリオさえ、小説や映画と違い、ゲームならではの、プレイヤーに能動的に五感や思考を駆使させて物語を語る、”翻弄”の体験がデザインできるとしています。

例えば、FFとドラクエの違いでよく語られるのが、FFはカットシーンでシナリオを語ってしまうけど、ドラクエはプレイヤーがマップを調べる事で、断片的な情報が手に入って、プレイヤーは現場で何が起こったのか、シナリオを推測できるという仕組みになってます。
ドラクエのこの手法は”環境ストーリーテリング”と言うもので、カットシーンではプレイヤーは操作できないで受け身になってしまいますが、環境ストーリーテリングではプレイヤーは能動的にシナリオを体験できます。

また、著者によると、ゲームのシーンはムービー(カットシーン)、探索、戦闘の3種類に分けられます。
ムービーでは操作できないので、受動的な体験になりますが、その分プレイヤーはじっくり画面を観るので多くのシナリオの情報量を得ることができます。
探索では環境ストーリーテリング的な能動的なシナリオ体験が可能ですが、プレイヤーは全然環境に埋め込んだヒントに目を向けなかったり、調べて欲しい物を調べてくれなかったりする事もあるので、ややコントロールが難しいです。
戦闘ではプレイヤーは切羽詰まってるので、シナリオどころじゃないので、シナリオの情報量を得ることができません。

ムービーだけなら、一番シナリオを伝えられますが、それだとゲームではありません。
戦闘だけだと、シナリオはほとんど伝えられません。
探索だけだと、まあそれもアリな気がしますが、ちょっと退屈です。
ですから、これらの3つのシーンを交互に入れる事で、”テンポとコントラスト”が生まれていい感じになるそうです。

もう一つ、シナリオに”伏線”を埋め込む事も重要だそうです。
小説の伏線でも、「あれは伏線だったのか!」というのは読者自身の能動的な気付きになります。

というわけで、ゲームに用意されたフィクションのシナリオは、環境ストーリーテリング、テンポとコントラスト、伏線、これらを駆使する事で”翻弄”の体験としてプレイヤーに伝えることができます。

それはいいんですが、シナリオはゲームのフィクションの物語であって、プレイヤー自身についての物語ではないので、ナラティブではありません。
著者によると、プレイヤー自身についての物語とは、つまりプレイヤー自身が”成長”する体験を与える事だとしています。

そのために、まず”収集と反復”のモチーフが必要だそうです。
例えば、ポケモンでは全部で151種類のポケモンがいる事が提示されて、プレイヤーはポケモンを1匹ずつ収集して、ポケモン図鑑の”穴”を埋めていこうとします。
このように、収集では穴を埋める気持ちよさを与えてくれます。

例えばテトリスも、ひたすら穴を埋め続けるゲームです。

ポケモンを遊んだプレイヤーは、151種類のポケモンの名前が全部言えますし、私も今でも覚えてます。
これは、プレイヤーが自分で1匹ずつ収集したからです。
ゲームをプレイしないでポケモン全部覚えろと言われても無理でしょう。
つまり、これはある意味ゲームを通してプレイヤー自身が成長していると言えなくもありません。

次に、”選択と裁量”のモチーフです。

例えば、マリオではプレイヤーはBボタンを押してダッシュで進む事を”選択”できます。
ダッシュすると速く進めますが、その分敵にぶつかりやすくなったりしてミスりやすくなります。

ミスッたプレイヤーは、「調子こいてダッシュしてたらクリボーにぶつかってしまった…自分が悪いな」と感じます。

プレイヤーが自分で行った選択について、成功したり失敗したりするのは、これはプレイヤー自身についての成功、失敗体験になります。

最後に、”翻意と共感”のモチーフです。
プレイヤーが主人公に共感する事で、ゲームがさらにプレイヤー自身が成長する体験になります。

著者によると、プレイヤーが主人公に共感するには3つの条件があります。

1、プレイヤーが主人公に興味を持ってる

2、プレイヤーは、主人公も自分と同じように思ってるだろうなあと信じてる

3、憎しみ以外の感情で共感する。憎しみは成長に繋がらないため

ですが、ゲーム開始時点ではこれらの条件は一つも満たせていません。

というわけでどうすればいいのかというと、まずプレイヤーが主人公に興味を持つためには、主人公をメッチャ動揺させればいい(心を動かす)そうです。
そのためには、手っ取り早い方法は、主人公を徹底的に不幸にしてボコボコに痛めつける事だそうです。
こうするとプレイヤーは主人公に興味を持って、1が満たせます。

しかし、この時点では、主人公は「しんどい…」と思ってますが、プレイヤーは「主人公がしんどそうだなあ」と思ってるだけなので、主人公とプレイヤーの思いが一致してませんので、共感になってません。
共感を満たすためには、プレイヤーと主人公の両方に同じ事を思わせる必要があります。

ここで、ラストオブアスの例が出てきます。
ラストオブアスでは主人公と一緒に旅をする、エリーという少女の同行者が登場します。
このエリーは、主人公を刺し殺そうとしてきたり、何かとトラブルを起こしたり、そもそも主人公の事が嫌いみたいで、とにかく主人公やプレイヤーからするとイラつくキャラになってます。

「どうしてゲーム中ずっと一緒に同行するキャラをわざわざイラつかせるような性格にするんだよ?」というと、こうする事でプレイヤーは主人公に共感できるそうです。
つまり、主人公は「エリー、イラつくなあ」と思ってますし、プレイヤーも「エリー、イラつくなあ」と思ってるので、主人公とプレイヤーの思いが一致してますので、共感状態です。

さらに、エリーは1の主人公を不幸にして痛めつける役割も持たせることができて便利です。

さて、共感には成功したものの、この時点ではプレイヤーはイラついてるだけで、ネガティブな共感になってしまってるので、これを何とかしてポジティブな共感に転換しないと、プレイヤーを成長させることができません。

そこでまず、エリーがちょっといいやつみたいなエピソード(フラグ)を入れてから、エリーを一気に死や絶望の瀬戸際に追い込みます。
するとそれまでイラついてたプレイヤーと主人公も、さすがに助けてあげようかなと思うので、ここでポジティブな共感が生まれて、めでたくプレイヤー自身が成長する物語が完成した…となるわけです。

これによって、ゲームは遊んでも時間のムダの単なる娯楽から、プレイヤー自身を成長させる手段に進化するそうです。

さて、ゲームの最後にプレイヤーの”意思”のデザインについての話があって、4つのモチーフが利用できるそうです。

1、命のやりとりのモチーフ

2、未知の体験のモチーフ

3、解釈の余地のモチーフ

4、スタートに戻るモチーフ

まとめ

というわけで、直感のデザイン、驚きのデザイン、物語のデザインの3つのデザインについて見ていきました。

”直感のデザイン”によって、プレイヤーはゲームを自発的に遊び、仮説を立てて、試行して、歓喜する事を”ついやって”しまいます。

しかし、直感のデザインだけだとやがて飽きられるので、そこで”驚きのデザイン”を入れてあげる必要があります。するとプレイヤーはゲームに”つい夢中に”なってしまいます。

とは言え、それだけだとゲームは夢中で遊んでしまうだけのヒマつぶし、単なる娯楽、時間のムダになってしまいます。
そこで”物語のデザイン”を入れてあげます。こうする事でゲームはプレイヤー自身が成長する体験を与えてくれるものになって、意義のあるものになります。

おわり

というわけで、「「ついやってしまう」体験のつくりかた」の内容メモでした。

私は最初で、「マリオは初見で右に行きたくなるようにデザインされてる」というのを読んで、ホンマかいな?とか思ってしまいました。

「そういう風に解釈する事もできるよね?」ってだけで、解釈の問題であって、必ずしも宮本さんが狙ってデザインしたかどうかは分からないよ…とか思ったので、ためしに同じく宮本さんが作ったゼルダの伝説の最初の画面を見てみました。

うおっ…たしかにゼルダでも、最初の画面で多くの情報が伝えられてるように見えます。まず、リンクは画面中央にいるので、マリオと違って重力で画面の下に落ちるゲームでは無い(サイドビューでなくトップダウン)事が分かります。
そして、これを見たらプレイヤーは「なんか上と左右に行けそうだなあ…」と仮説を立てるでしょう。
さらに、謎の黒い洞穴、プレイヤーは「あそこに最初に入ってみたいなあ…」と自然に思うはずです。実際、穴に入ると剣がもらえるので、プレイヤーは仮説→試行→歓喜の流れがいきなり体験できます。

というわけで、たしかに宮本さんはゲームに”直感のデザイン”を入れてるらしいとよく分かりました。

ちなみに、いくらマリオを右に行かせたいからって、最初の画面で「右に行け」とかメッセージを表示したら台無しになる点に注意です。プレイヤーは自分自身で仮説を立てて試行したいのですから、ゲームデザイナーがプレイヤーに命令するのは良くないです。

この本は、ゲームデザインの方法論についての本質を解き明かして分かりやすく説明してくれているので、たまげました。

その中でも重要だと思った話は、

「ゲームは面白そうだから遊ぶのではない、プレイヤーが自身で直感するという体験がおもしろいからついやっちゃう」

「ゲームシナリオはプレイヤーについての物語ではなくて、プレイヤー自身が成長する体験こそがプレイヤーについての物語になる」

と言う話、目からウロコがボトボト落ちてきました。

とは言え、じゃあこの理論に従って早速ゲームを作ってみよう!と思った場合に、まだ十分に説明されてないポイントがあると思いました。

「マリオは初見で右に行きたくなるようにデザインされている」と言う話は、すでに完成したマリオのゲームをあとから分析する分にはそう言えるでしょうが、じゃあ実際に自分がゲームを作る時にどうやってデザインすれば狙い通りにプレイヤーに仮説を立てさせることができるのか?は結局謎です。

私の想像ですが、いくら宮本さんが天才だと言っても、必ずしも一発で狙った通りにプレイヤーを操れるわけではないでしょう。
前に宮本プレイテストの記事で書いた通り、おそらく宮本さんは、初見のプレイヤーでも右に向かうようになるまでひたすらプレイテストして試行錯誤を繰り返したはずです。

つまり、結局のところこのような体験のデザインのためには、初見でプレイしてくれるテストプレイヤーを大量に用意してひたすら試行錯誤する必要があるだろうと言えます。
ゲームデザイナーが「このようにデザインすれば、プレイヤーは○○したいと思うはずだ」と思ったところで、そのデザインが実際に機能するかはプレイテストしてみないと分からない事です。

結局、任天堂のような社員やデバッガーが沢山いる会社ならいいですが、個人ゲーム開発者はテストプレイヤーの確保がなかなか難しい事が問題になります。

じゃあテストプレイヤーが確保できない開発者はどうすればいいのかというと、世の中に出ているおもしろい商業ゲームはすでにプレイテストを繰り返して機能する事が検証済みの体験デザインが盛り込まれているわけですから、そういうゲームからパク…インスパイアするしか無いかもしれません。

ところで、この本を読んでて私は「あまりにも重要な事だけしか書かれてなさ過ぎる…」と感じましたが、後書きによると、本来この本は6倍の分量がありましたが泣く泣く削ったそうです。
何で削ったの!?削った部分読みてぇ~!
著者によると削った部分はホームページとかあるいは次の本で書くかもね。との事です。(でも今のところWeb上には書かれてないっぽい)
はやく次の本出してください!!!!