現在、市川春子先生の「宝石の国」が、連載再開を記念して1週間(2022年6月24~30日)のあいだ全巻無料公開されてます。
それとは関係なく、私は最近、マンガのネタを探してました。
私は”純粋な世界”のマンガが好きなので、そういうのを描きたいと思いました。
私の好きなある種のマンガでは、純粋な世界が描かれています。
パッと思い付いたのが、つくみず先生の「少女終末旅行」とか、市川春子先生のマンガ全般です。
しかし、純粋な世界ってつまりどういう世界なんだっけ?
純粋、ピュアというのは”不純なものがない”、”汚らわしくない”というイメージですね。
つまり、純粋な世界というのは、普通の世界に比べて何かが足されてるわけではなく、色んなものが引かれてる世界です。
たとえば人間の欲望は醜いですから、純粋世界にはセックス(肉欲)とか、金銭欲、名誉欲とかは無いでしょう。
ジェンダーや肉親、社会や責任といった面倒なしがらみも無いかもしれません。
下手をすると、食事や排泄、身体性、悪役とかさえ無い可能性もあります。
では、具体的にどのようにして純粋な世界を実現するのか?というと、社会から隔離された箱庭を用意するといった方法があります。
さらに、登場人物が子供なら、子供は肉欲とか金銭欲とかジェンダーとかがまだ芽生えてませんから、よりピュアになるでしょう。
要するに”ドラえもん”です。
ドラえもんの映画では、しばしばのび太達は大人や社会から隔離された箱庭を作ってそこで冒険します。
とは言え、市川春子先生マンガとドラえもんでは読書体験は異なりますよね。
というのも、のび太みたいな子供がピュアで社会から隔離されてるのはある意味当たり前の事です。
市川マンガでは、主人公はもっと上の年齢の高校生、大学生、あるいは20代の社会人とかです。
要するに、「大人になってものび太みたいに社会から隔離された箱庭に引きこもって遊んでたいよ。社会の責任とか負いたくねーよ」といった、私みたいな読者の甘ったれた願望の表れという事です。
ある種の現実逃避です。
純粋な世界のマンガが我々を惹きつけるのは、こうした願望を満たしてくれるからでしょう。
余談ですが、純粋な世界のマンガは”人間の純粋さ”をテーマに描いてるのではありません。
マンガでは描きたいテーマとは正反対の物を描く必要があります。
どうしてそう言えるか?というと、これは弁証法的な考え方です。
弁証法ではある命題(テーゼ)に対してそれを否定する命題(アンチテーゼ)をぶつけなければなりません。
テーゼとアンチテーゼが衝突することで、高次元の解決(アウフヘーベン)が生まれます。
たとえば、平和をテーマにしたいなら、アンチテーゼとしての戦争を描くべきです。
という事は、”人間の純粋さ”をテーマにしたいなら、逆に人間の汚さや欲望を描きまくるハメになるでしょう。”ソロモンの偽証”という映画では、クズや偽善者が次から次に登場する事で、むしろ死んだ柏木君の純粋さが浮き彫りになります。
ところで、実は純粋な世界のマンガを描くのはかなり難しいです。
何故なら、純粋な世界には、普通の世界と比べて色んなものが欠けてるからです。
ちなみに、世界中の宗教で、地獄の表現は豊かなのに天国の表現は貧しいという話があります。地獄には人間の全ての悩みや苦しみ、罪や痛みがこれでもかというくらい大量にありますが、天国はそういうのが一切ない世界なので、要するに天国は何もないつまらない世界なのです。
果たして金も暴力もセックスもない純粋な世界に、一体どんなストーリーが残っているというのか?
マンガにするからには、純粋な世界で何か事件が起こったハズですが、事件ってどんな?
ちなみに事件と言ったって、もしも隔離した箱庭で殺人事件が起きてしまったら、それはもう探偵マンガ…”金田一少年の事件簿”になっちゃうのよ。
とは言え純粋な世界のマンガでも”死”を描く事は可能です。死といっても綺麗な死です。
綺麗な死というのは”心中”とか”自己犠牲”です。普通、死というのは逃れられぬ宿業、老いや病苦のイメージがありますが、心中や自己犠牲は死を目的化する事であって、だから綺麗で崇高なイメージになります。
まあとにかく、純粋な世界には普通のマンガで描かれる要素のほとんどが取り除かれてる世界であり、だから描こうと思っても、難しいわけです。
そんな中、市川春子先生の短編マンガでは、繰り返し純粋な世界が描かれてます。
市川先生の短編集は、「虫と歌」と「25時のバカンス」の二冊があります。
これらの短編、私は大好きなのですが、どの話も構造としては大体同じ話が繰り返されています。
しかし、どういう意味で同じなのか、今まであまり深く考えてこなかったです。
よくよく眺めてみると、ストーリーの共通構造が見えてきます。
今回の記事では、市川先生の短編マンガについて分析して、なんなら真似して描けるくらいのところまで持っていきたいと思ってます。
ちなみに、市川先生は「宝石の国」という長編も描いてますが、そっちは構造が複雑でよく分からないので今回は除外して考えます。
市川短編のテンプレ
まず、舞台は”社会から隔離された箱庭”です。具体的には、学校とか、二人きりの別荘みたいな場所です。遭難しちゃうケースもあります。とにかくそこには肉親とかいなくて、肩書きや仕事、役割から逃げる事ができます。
主人公は”青年”です。(”パンドラにて”に限っては女性)
どこにでもいる普通の青年…では無くて、天才少年だったり野球部のエースだったり、なんか才能(あるいは親が特別なせいで特別扱いされる)を持ってますが、それが重荷になってて逃げるために主人公は箱庭に赴きます。
あるいは主人公もまたヒロインと同類の”人間じゃないモノ”で、自分でも最初は気付いてないけど後で判明したりします。
ヒロインは男だったり女だったりですが、とにかく”人間じゃないモノ”です。
人間じゃないというのは動物とか幽霊とかそういう事ではなく、虫とか植物(またはヒトデ)、貝、流れ星、月の光、粘菌、雷など…。
とにかくヒロインの正体を何にするかが一番のポイント…というか、そこのアイデアを最初に決めてから話を考えてそうです。
そして、ヒロインは”人間のフリ”をしています。
箱庭にて、主人公とヒロインは出会います。
主人公はヒロインに対して、新しい何らかの役割を演じる事になります。箱庭に逃げてくる前の社会での役割とは異なる役割です。ヒロインの弟を装ったり、ヒロインの恋人を装ったりします。
それから二人が仲良くなっていく過程が描かれますが、おおむねラブコメみたいなノリでギャグ調で描かれます。
ヒロインは正体を隠してるケースもありますが、大抵はアッサリ主人公に正体を明かします。
主人公もショックは受けつつもまあヒロインの正体を受け入れます。そんなアッサリ受け入れられるか?と思いそうですが、すでにラブコメ展開が始まってるので、この辺もギャグっぽいノリで処理されます。
ちなみにヒロインの正体について能書きを語るシーンは毎回相当ねっとりと描かれてます。多分市川先生にとってここがアイデアの見せ所であり、最大の山場なのでしょう。
正体を明かした後は、例えば正体が貝なら”貝あるあるギャグ”とか、”植物あるあるギャグ”とかを連打して間を繋ぎます。
そんなこんなで主人公とヒロインは仲良くなっていきます。
しかし、ヒロインは「一緒にはいられない」と言います。
何故なら、ヒロインには使命があるからです。
そしてその使命は”ヒロインが壊れる事”で達成されます。
どんな使命か?というと、まあそれは主人公を助ける事だったりします。とにかくヒロインは絶対に壊れます。
この時、主人公は「使命(たとえ主人公を助けることだとしても)なんかどうでもいい。自分はヒロインが一緒にいてくれさえすれば幸せなんだ」と思ってますが、それは叶いません。ヒロインは主人公の気持ちを知ってか知らずか無視してとにかく使命を果たします。
ヒロインの”自己犠牲”(まあ壊れたからと言って死んだとは限らない)によって、主人公とヒロインは離れ離れになります。
何となくせつないやり切れない空気で話は終わります。
また、主人公とヒロインの二人だけだと話を転がすのが難しいので、他のキャラが出てくる事もあります。
主人公が元々いたコミュニティに属する人ですが、主人公が箱庭に引きこもってても特に文句言いません。
とまあ、短編マンガで繰り返される共通項を抜き出してみると大体こんな感じになると思います。
この構造が何がすごいのか?というと、同じような構造でも短編集を読んでてそんな風に感じさせないし、まったく飽きないので、強力な構造だと思います。
また、上で述べたように、ほとんど何も起きそうにない純粋な世界で一体どんなストーリーを描けっていうんだ?という問題がありましたが、この構造なら見事に純粋な世界でストーリーを描く事が可能です。
リルル説
私がテンプレをまとめてて思い出したのが、「のび太と鉄人兵団」のリルルです。
リルルはロボットですが、人間のフリをしてのび太に接近します。
見た目は人間そっくりですが、怪我をした部分は皮膚の下は完全にメカが露出してます。
そして、最後はリルルは使命を果たして世界を救いますが、代わりに消滅してしまいます。
なんとなく市川短編のヒロインに似てますよね。
「虫と歌」と「25時のバカンス」の違い
市川短編が大体同じ構造の繰り返しと言っても、最初の短編集「虫の歌」と2冊目の「25時のバカンス」では違いがあったりします。
まず、”25時のバカンス”では、”ヒロインは見た目は人間だけど、一皮むくとまったく異なる存在”みたいなシーンがかなり強調されて描かれるコマが絶対出てきます。”虫と歌”の頃は全然無かったシーンです。
純粋な世界は起伏に乏しいので、こういう数少ない見せ場を強調してショッキングに描く事で面白みが増すのでしょう。
ちなみに「宝石の国」でも宝石達が見た目は人間だけど中身は宝石…みたいなコマは繰り返し描かれてます。
次に、”虫と歌”では、主人公とヒロインはおおむね死別するか、それに近い別れを迎えます。
それに対して”25時のバカンス”では、”一応”別れずに済みます。
ただし、別れなくて済む代わりに、大きな代償を支払うハメになります。世界が一変するような代償です。
”25時のバカンス”(書名じゃなくて作品の方)では、異常な海面上昇で世界は部分的に沈みます。
”月の葬式”では、月がぶっ壊れます。
この結末の違いは、適当な憶測ですが編集部の意向かもしれません。
主人公とヒロインが死別してしまうとそれっきりで、続きが描けません。
編集部としては、きっとじわじわ長編を描かせる方向性に持っていきたいと思ってて、だから最後に分かれないでくっ付くように注文した可能性はなくはないでしょう。
市川短編のモチーフは昭和レトロ?
市川短編マンガを読むと、なんだか不思議な読後感を覚えます。
何だか子供の頃を思い出すというか、懐かしいというか…。
例えるなら、ヘルマンヘッセの”少年の日の思い出”の一節に出てくるような感情とでも言うでしょうか↓
今でも美しいチョウチョを見ると、おりおりあの熱情が身にしみて感じられる。そういう場合、ぼくはしばしばの間、子供だけが感じることのできる、あのなんともいえぬ、むさぼるような、うっとりした感じに襲われる。
それは話の構造的にドラえもんとかを思い出すからでは?という気もしますが、それだけではない気もします。
このようなノスタルジーを引き起こす理由について考えてみます。
市川短編のヒロインのモチーフは、虫、植物、貝、ヒトデ、流れ星、月の光などですが、これはいかにも子供の頃に学校の図書館で読んでた古い学習図鑑的なチョイスです。
話はちょっと変わりますが、令和の今、世間では昭和レトロブームが来ていると言われてます。
昭和レトロって単に昭和ならなんでもいいのか?というよりは、我々が子供の頃は昭和(あるいは平成の初め)だったというのがポイントだと思います。
つまり、我々が子供の頃読んでた学習図鑑は昭和レトロを研究する上で欠かせない要素です。
これを言うとこじつけっぽいですが、市川マンガの絵もなんとなく学習図鑑のカラーじゃないページっぽい気がします。
山田玲司氏によると、背景の建築はデキリコなどのシュールレアリスムの影響が感じられるそうです。
https://www.nicovideo.jp/watch/so38479328
たしかに市川漫画の背景がデキリコと言われるとそんな気もしますが、俯瞰で描かれる建築や風景は、教科書や図鑑で描かれてる模式図のようでもあります。
昭和の頃はチラシのモチーフにシュールレアリスムがよく用いられてたので、やはり昭和のフレーバーがあります。
市川先生は漫画家になる前はエディトリアルデザイナーをされていたそうです。
そういうのもあって、市川漫画にはデザイン的、アート的な美学が詰め込まれてると思います。
また、市川漫画では研究のモチーフ、そして研究者のキャラがたびたび登場します。
これはヒロインの正体の能書きを語るシーンで、やっぱり研究者じゃないと締まらないからかもしれません。
てなわけで、市川漫画では研究、デザイン、アート、学習図鑑(博物学)、シュールレアリスム、昭和レトロのモチーフが多用されてます。
これにより、読者は子供の頃の好奇心、例えば子供の頃に美術館、博物館、水族館、図書館、プラネタリウムに行った思い出が想起されます。
これが市川漫画を読んだ時のノスタルジー的感覚の理由かもしれません。
市川短編的な発想法
では、市川短編的なマンガを描こうと思ったら、どうやってアイデアを練ればいいのかを想像してみます。
まず最初に考えなきゃいけないのは、「もしも○○が人間のフリをしたらどんな感じになるだろう」という事です。
これは、”擬人化”とはちょっと違います。”擬態”みたいな感じです。
市川先生は虫や植物はおろか、粘菌や流れ星、月の光まで人間に擬態させてるわけですから、ぶっちゃけ何でもアリという事が分かります。
ちょっと考えてみましたが、私の凡庸な脳みそでは全然何も思いつきません。まあ、ひとまず”ロボット”とかでいいんじゃないでしょうか。凡庸な発想ですが。
さて、ヒロインはロボットが擬態するとして、次に考えるのは、”ヒロインは何の使命のために壊れるのか?”です。
まあ…凡庸に考えると、主人公のピンチを助けようとして壊れちゃうんじゃないかな。
そこまで考えれば、あとは舞台の”箱庭”と”主人公”と”ラブコメ”展開を埋めればOKです。
箱庭は”無人の月面基地”で、主人公は基地を調査にやってきた宇宙飛行士…とかどうでしょうか。
宇宙モノにしちゃうと読者が共感しづらくなるのが問題ですが、月面基地なのに何故か中は普通の家…とかしちゃえば親近感湧くでしょう。
主人公とヒロインの二人きりだと話が転がしづらいので、主人公が乗ってきたロケットのコンピュータにハル9000よろしく会話してもらうとかどうでしょう。主人公が手にしてるタブレット越しに喋れるとかね。
つまりストーリーはこうです。
舞台は2200年。
宇宙飛行士の主人公は、無人になってしまっていた月面基地を調査に行く。
しかし、無人のハズの月面基地には一人の少女がいた。
少女は記憶を失っていたが、主人公と共に行動して、仲良くなっていく。
ある日、主人公は病気で死んだ人間の死体を見付ける。この基地が無人化したのは感染病によるものだと気付くが、主人公もまた病に倒れる。
ヒロインは、自分がロボットである事を思い出して、主人公を助けるために酸のプールを通ってワクチンを回収する。
主人公は元気になるが、ヒロインは機能停止する。おわり。
う~ん、雑ですね。そもそもヒロインはロボットだからご飯食べれないからそこで正体バレるでしょう。
まあ、適当に考えたせいで細部に問題はありますが、とにかくテンプレを使えば純粋な世界でのストーリーを考えていけそうだよねという一例を示しました。
ゲームだと簡単に純粋な世界を描ける?
純粋な世界ではそうそうドラマが起こせないので、マンガで純粋な世界を描くのは難しいという話をしてきましたが、実はゲームなら割と純粋な世界を表現しやすい説があります。
例えば、ICOでは主人公の少年とヨルダは二人きりで霧の城という箱庭に隔離されています。
Inscryptionも、レシーと二人きりで小屋に隔離されて永遠にゲームをし続ける、ある意味純粋な世界です。
さらに、「あつまれ どうぶつの森」も、無人島に隔離されて、動物の仲間たちと永遠に幸せな日々を暮らすゲームです。(ちなみに「宝石の国」の柱の作者コメントによると市川先生もこのゲームかなりやってるらしい)
まあ、この話は掘り下げると面白そうなので、また別の機会に考えてみます。
表紙の加工について
おまけの小ネタですが、「虫の歌」と「25時のバカンス」では、それぞれ表紙に透明な浮き出し加工がされてます。
表紙の絵自体はそれぞれの作品の主人公やヒロイン達が描かれてますが、浮き出し加工の方では虫や花、月が割れて光が飛び散る様子、貝や真珠の図柄が描かれています。
つまり、「彼らは見た目は人間だけどその正体はこうだぞ」という事実が浮き彫りになるという仕掛けになってます。