先日、市川春子先生の短編マンガについて記事を書きました。

今回の記事では市川先生の長編マンガの「宝石の国」についてあーだこーだ書いてみたいと思います。
私は1巻の頃から単行本で話を追いかけてましたが、11巻が出た後の長期休載で止まってました。

とりあえず今日、コミックDaysのアプリで最新連載分の96話まで読んでみました。
大変な事になってんなあ…。

さて、今回の記事では割と批判的に見える話とかも出てくると思います。
「オメー、ロクにマンガ描いた事も無いくせに、何様のつもりで偉そうに言うとんねん」と思われるかもしれません。
まあ、私も読者として、宝石の国には2013年から8年間くらい散々振り回されてきたわけですから、ちょっとくらい好き勝手放題言った所で許していただきたいものです。

「宝石の国」連載の経緯

「宝石の国」は元々市川先生が高校生の頃に考えていたアイデアでした。(ちなみに仏教系の高校)↓

“はかりしれないほどの光”でも、すべては救えない

「虫と歌」「25時のバカンス」を描いたあと、アフタヌーン編集部から「そろそろ長編を描きましょう」と打診があって、「長編と言われても、高校生の頃のアイデアしか無いッス」「じゃあそれで」みたいな軽いノリで決まった…という話を昔どっかで見た気がしますが、すいませんがソースが見つかりません。

前回の記事で、市川先生の短編は、社会から隔離された”箱庭”での話だとしましたが、「宝石の国」はその究極系と言えるでしょう。

「宝石の国」では社会から隔離どころか、遥か未来で人類は絶滅してしまってます。もはや地上にいるのは人間そっくりに振舞ってるけど中身は宝石の宝石人間たちだけです。
宝石人間は、普通の人間とは違って、完全に純粋な存在です。ご飯も食べないし、ウンコもしません。肉欲も金銭欲も肉親も性別もありません。
そして宝石達は金剛先生の学校で毎日キャッキャウフフしてます。
純粋な世界に純粋な宝石だけが存在しています

要するに「宝石の国」の世界は、高校生だった頃の市川先生の考える純粋の結晶みたいなもんです。

「箱庭」では何も起こらない

前回、純粋な世界…つまり箱庭でのマンガを描くのは難しいという話をしました。
箱庭ではそもそもドラマらしい出来事が起きないからです。
短編でさえ、ストーリーらしいストーリーを成立させる事は困難です。
ただし、市川先生は強力な箱庭ストーリー構造を持っているため、短編集では同じ構造で何度も箱庭のマンガを描いています。

しかし、短編ならともかく、よりによって長編連載で「宝石の国」みたいな純粋すぎる箱庭世界を描かせるなんて、編集部はもっとよく検討すべきだったのでは?とか思ってしまいます。
まあ結果的に人気出てるわけですから文句言えませんが。

上のリンクのインタビュー記事で市川先生は言ってます。

最初の短編を描いた時も、今でも、このお話がこの先どうなっていくかは自分でもわからないんです。ただ、そのわからなさに惹かれた、という感じですね。

市川先生自身、マンガがどうなるか分からないまま描き始めてしまったそうです。
最初から全部構想を立ててから描き始めたのではなく、描きながら展開を考えるライブ感で連載をしていたらしいというのは重要な事実です。

実際、物語の序盤では何も起きません

いえ、厳密に言えば何も起きてないわけでなく、たまに月人が襲来してきます。
しかし、それで月人を撃退したからと言って、どうなると言うものでもありません。

この状況、ドラクエで例えると、勇者たちは最初の城にずっと立て籠もっていて、時々やってくる魔物を撃退してるだけみたいなもんです。
しかも、城の外にはもはや人間は一人もいません。
そんなドラクエがあったとして、それって面白いでしょうか?というか、こんなシチュエーションではそもそも何か面白い事が起きる余地がありません。

ちなみに短編の頃にやってたような展開は「宝石の国」でも見られます。
主人公のフォスが、他の宝石(短編で言うヒロイン)に出会って、仲良くなります。
しかしヒロインは、使命(フォスを守る)のために壊れます

まあ、宝石はどんだけ砕けようが再生できますから、短編の時のような衝撃はありません。
読者的には「あ、砕けた。ふーん、綺麗だね」くらいの温度感にしかなりません。

読者にもっとショックを与えたい時は、宝石は壊れるだけではなく、月人に連れ去られてしまいます
アンタークやゴーストがこれに該当します。連れ去られた宝石は取り戻せた試しが無いのでショックが大きいです。

しかしまあ、短編では効果的だったこの構造も、長編マンガでひたすら同じことの繰り返しだと、飽きるというか、倦んできます。
それは私含めた読者もそうですし、宝石達自身もそうですし、ひょっとすると作者が一番しんどかったかもしれません。
(もしも、永遠に同じことを繰り返してウンザリしてる宝石達の気分を読者に味合わせる狙いで、わざと延々と同じ展開を繰り返していたんだとすると、それは非常に効果的だったと言えます)

しいて言えば、一切何も変化が起きないわけではなく、マンガの中でフォスは成長していってます。
しかし、本来は永遠に変化しない宝石ですから、成長という変化を遂げるために、身体欠損してアゲートや合金、ラピスラズリと合体していく事で強く、また賢くなっていきます。純粋だった頃は脆く、弱かったですが、他の物質と混ざり合って純粋さを失うほど強靭になっていきます。
成長したから何なの?と言うと、最初はずっと「金剛先生大好き!」だったのが、7巻あたりでようやく「金剛先生ってなんか怪しくね?」という事に気付くに至ります。

ちなみに、前回”マンガは描きたいテーマと逆の事をアンチテーゼとして描く必要がある”という話もしました。
”ソロモンの偽証”では偽善者やクズがドバドバ出てくる事で、むしろ柏木君の純粋さが浮き彫りになるという話です。
ですが、「宝石の国」では純粋な宝石しか登場しません。これだと純粋さとは逆のテーマが浮かび上がってしまいます。人間の”汚さ”とか”クズさ”です。

不思議な事に、市川先生が頑張って一生懸命宝石達の純粋さを描けば描くほど、なんだか薄ら寒い偽善性、偽りの世界、騙されてる…みたいな雰囲気が出てしまってます。
この事実に一番ショックを受けたのはやはり市川先生自身かもしれません。

単なる言いがかり

さて、ここからは市川先生はこう思った…みたいな話を描いていきますが、これらは全て私の仮説…いや妄想、当てずっぽう、憶測、言いがかりのようなものである事をあらかじめ断っておきます。市川先生が何を考えてたかなんて本人しか分かりませんから。

市川先生は、自分が高校生の頃に考えた、最高に純粋な世界の純粋な宝石達の話を引っ張り出してマンガ連載を始めました。
この世界観は自身の短編マンガの原型になってるものです。
綺麗でピュアな物だけを集めた世界なんだから、間違いなく素敵なマンガになるに決まってます!
話の展開は思いついてないですが、まあ描きながら考えれば色々思い付くでしょう。

と思って始めたものの、なぜか面白い話が描けません?どうして??
例えば、触れるものみな傷つけてしまうシンシャと、彼のために仕事を探してあげるフォス…こういう関係を設定してあげとけば、なんか面白い事がおきるやろ!と思ってたのに、実際にはなんも起きません。なんでや!?

(なにもストーリーが起きないのは、純粋な世界と純粋な宝石なのが足を引っ張ってます。もしもこれがフォスが渋谷の女子高生で、シンシャが不良をやめたがってるヤンキーだったとしたら、いくらでも面白く話を転がせそうです。
純粋な箱庭では舞台が無いにひとしく、社会やレッテルが無ければ自分を変えることもできない、おまけにジェンダーも恋愛もない!無いないづくしでは話は転がりません。純粋な宝石というのは実際にはあらゆる属性を剥奪された存在だと言えます)

市川先生は仕方なく同じような展開をひたすら繰り返して描いてましたが、7巻くらいまでそうしてたら流石にウンザリしてきました。
箱庭の世界を描き続けていたのは、「いつまでも箱庭に引きこもって純粋なままでいたいよ。社会人としての責任とか負いたくないよ!」という意識の表れでした。
しかし、漫画を描けば描くほど、何も進展が起きない箱庭世界に絶望していったかもしれません。
「人間、こんな箱庭なんかにいつまでも引きこもってちゃダメだな」と感じたのかもしれません。
箱庭の限界が露呈しました。

54話のエクメアの台詞を引用します。↓

朝起きて、食事を摂り、糞をして、誰かと対話し和解し愛し合いいがみ合う。
耐えず進展していない不安に侵され、無理に問題を探し出し小さな安心を得る
永久にその繰り返し

これはエクメアの口を借りて、市川先生がマンガの展開を考える時の行き詰った気分を言ってるようにも見えます。

宝石の国最大の衝撃、カンゴーム女子堕ち

特に、カンゴームがアンタークの二番煎じ的キャラになっちゃったあたりで「このままだとマジにヤバい」と思ったのかもしれません。
単行本9巻あたりの展開は、なにか市川先生に大きな心境の変化があったとしか思えません。

ところでインタビューに寄れば金剛先生は市川先生の理想の男性像だったようです。↓

金剛先生はちょっとこわいけどかわいげがあるという、私の考えるいい男像です。

【インタビュー】上は少年、下は少女。性別のない宝石たちは「色っぽい」! 『宝石の国』市川春子【前編】

その理想的男性だったはずの金剛先生は、9巻でキャラ崩壊してコンちゃんに成り下がります。

さらにそれよりも「宝石の国」最大の衝撃的展開は、カンゴームの変化です。
クールなやれやれ系、ボーイッシュでカッコいい王子様、頼りになる相棒、ハンターハンターで言えばキルア的ポジションのカンゴームでしたが、フォスを裏切って、”女”丸出しの媚び媚びラブラブ黒ギャル姫化してしまいました。

カンゴームのキャラが根底から覆されましたが、それはつまり宝石の国の世界観が根底から覆されたという事です。
これは「宝石の国」全ての読者に致命的ショックを与えたハズです。
だってこれは、今まで宝石の国が描いてきた、純粋な箱庭の世界、純粋な存在の宝石を根本から否定しています。今までずっと”良し”とされていたものが急に”悪し”になった瞬間です。

カンゴームが結婚したエクメアは、月の王様という強すぎる”肩書き”を持っていて、イケメンで”男性ジェンダー”丸出し、ご飯を食べてウンコもするし、カンゴームと”キス”や”セックス”さえしているっぽい!?
今までの箱庭の純粋な世界と純粋な宝石達とは対極に位置するヤツだよ。

この余りの急転換っぷりは、市川先生の大きな心境の変化を感じさせますが、一体何があったんでしょうか。
もしかしたら市川先生も結婚とかされて、だから自分自身の変化をカンゴームになぞらえて描いて、劇中でも結婚させたんだったりして…みたいな余計な事まで想像してしまいました。

カンゴームの女子化は、つまりせっかく純粋で尊くて綺麗だった宝石をただの女子に堕とす行為です。
しかしまあ、そうでもしなきゃ、純粋な宝石達のままだと彼らは永遠に何の変化も起こせない烏合の衆だったので、ストーリーに進展を生み出すにはこうするしかなかったのかもしれません。
それに、カンゴームと同様、ジェンダーとかがずっと描けなくて一番抑圧されてたのは市川先生自身だったのかもしれません。その反動が月世界とエクメア達に出てしまったのかも。「月の住人はみんなもう生きるのに完全に飽きてる…一刻も早く無になりたがってる…」とか最初言ってた割に、みんな全然普通にたのしそうだし。

さらに追い打ちをかけるように、金剛もカンゴームも、「今まで無理してキャラを演じててクッソしんどかったわ~」的な事を言い出します。今までが演技のウソで、キャラ崩壊した方が本当の自分というわけです。
ウソだろ…じゃあ今まで読んできた話は…そして我々が応援してたはずのキャラクターは一体…。

つまりここに来て、市川先生は純粋な世界と純粋な宝石を完全否定しにかかりました。

箱庭の崩壊

アンチテーゼの話の通り、市川先生は箱庭の世界を描けば描くほど、その世界の欺瞞性、嘘くささ、インチキを痛感していたと思います。

そして箱庭の潜在的な欺瞞性は市川先生自身の手で暴かれていく事になります。

まず、宝石達は全員美人です。そもそも全員が揃いも揃って美人というのが欺瞞的です。
第一、マンガ的に言えば、全員が美人というのは全員がブサイクであるのと同じです。見分けが付かないという意味で。宝石達、せめてカラーなら見分けが付きやすいですが、白黒で全員同じ服で同じくらい美人だと見分けるのが難しい…。
で、どうして宝石はみんな美人なのか?という謎が明かされます。
それは、宝石が生まれた時に平等になるように金剛が顔を整形してあげてたからでした。

そうなると急にゾッとするものがあります。美しい宝石達の世界がイビツで間違った世界に見えてきます。
だって勝手に整形するなんて金剛先生のエゴとか趣味じゃないですか?生まれたありのままの容姿では何故いけないの?

次に、どうして宝石達は無条件で金剛先生を慕うのか?
これも、実は金剛先生は周囲の人間から好かれるように洗脳してしまうからでした。

さらにさらに、フォスたちが裏切った後の学校では、宝石達は交代で冬眠して、分担して冬の仕事をするようにしました。
「は?」じゃあずっとアンタークに1人きりで冬の仕事を押し付けてたのは何だったの?分担できるなら最初からそうしとけや!

そしてシンシャが他の宝石達と一緒に眠れるようにケースを用意してあげました。
これも、そんなんできるんだったら最初からやってやれや!!

要するに今まではアンタークやシンシャをハブッてたって事でしょ。
一体こんな宝石達のど~こが純粋な存在だってんでしょうか?クズじゃん。

そしてそして、ルチアはずっとパパラチアを治すために努力し続けてましたが、月の技術でアッサリ治ってしまい、ルチアはその事実を突きつけられます。
つまり市川先生が云わんとするのは、「箱庭なんかに引きこもってたら、いくら研究したってロクな成果は出せね~よ」という事でしょう。

というわけで、いくら純粋な世界を描こうとしても、アンチテーゼ理論でむしろ偽善や欺瞞、インチキが噴出してしまう問題ですが、市川先生はむしろそうした欺瞞を隠さないで見せつけるように暴き出してしまいました。
これはもう完全に市川先生が箱庭の世界を潰しにかかり始めたという事です。

このアンチテーゼ理論の極みと言えるシーンが、85話の、金剛の誕生日を祝う宝石達のシーンです。
絵としては、みんなハッピー、究極の理想郷みたいなシーンが描かれてます。
しかし、アンチテーゼ理論によって、そういう風に描けば描くほど、むしろ逆に不穏な空気が出てくるハメになります。

そもそも、みんな幸せなハッピーエンドみたいな世界なんて、オハナシとしては完全にどん詰まりです。ハッピーになったらエンドするしかないからハッピーエンドなのです。
普通の読者なら、こんなこれ見よがしなハッピーなシーンを描いたら、「こりゃあこの後悲惨な事が起きる前フリに違いない…」と想像するに決まってます。当然、市川先生も分かってて前フリとして描いてます。
実際、この直後にフォスたちが襲撃してきて宝石達は全滅、金剛は破壊されます。

箱庭の崩壊です。

ハッピーな世界は破壊の前フリにしかならないという話で言うと、ぶっちゃけ「宝石の国」が始まった時点で箱庭の世界は最初から崩壊を内包していたと言えます。
箱庭を舞台に長期連載を始めた時点で崩壊は必然だったという事です。

物語の後半では、フォスの裏切りによって、宝石同士が殺し合うハメになります。
これも、宝石が実際は純粋な存在じゃなくてクズ性をもってると発覚した時点で必然だったと言えるかもしれません。

箱庭という閉鎖環境に沢山の人間を閉じ込めておいたら、内ゲバが始まる以外ありません。(最近「レッド」を読みました)

純粋な世界だったはずの箱庭も、長期連載の果てにはもはや内ゲバから逃れられない…何故ならマンガだからです。

箱庭なんか捨てて、社会に出ろ!

月の世界は、純粋な箱庭ではありません。月人も、純粋な存在ではありません。
月世界は多少変なところもあるものの、いわゆるフツーの人間の世界、人間社会です。

月人には、男も女もいます。イケメンや美人もいれば、そうでない人もいます。
そんな月世界ですが、とってもたのしげで愉快、面白そうな世界です。
月人たちもみんなそれぞれ社会の中で働いてて、イキイキとして見えます。
代表的な月人としては、バルバタがいます。チャラいイケメンに見えますが、天才科学者です。

月人のセミやクイエタ、エクメア、バルバタ達の絡みはとっても愉快です。
それは彼らが純粋な存在などではなく、普通の世界の普通の人達だからです。

月に行った宝石達とバルバタが会話するシーンなんて、しかるべきキャラ達がしかるべきジェンダー的役割をこなして型にカチッとハマったような普通の良さがあります。
しかし、そうであればあるほど、今までの箱庭世界のダメさ加減を思い知ります。

こうして見比べると、純粋な箱庭の世界は、本当に窮屈で不自由な世界でした。カンゴームが鬱になってたのも当然です。
箱庭の世界だけならまだマシだったのかもしれませんが、さらにそこにいるのが人間ではなく宝石という状況が追い打ちをかけます。

市川先生も描きながらこの事を実感したでしょう。

イエローダイヤモンドに至っては、精神病で自分を月人だと思い込んでしまいます。
「もう宝石でいるのなんかウンザリだ~!月人になりたいよ~!!」というわけです。

月世界というのは、箱庭の外の社会のメタファーだと言えます。
つまり、フォスが宝石達を月に連れて行ったのは、箱庭に引きこもってたのを社会に連れ出したメタファーです。

月に行った宝石達は、バルバタから勉強を教わりました。

そして、アメシストは研究者になりましたし、ダイヤモンドはアイドルになりました。アレキとベニトは中華料理屋で働いてます。カンゴームはすでに結婚しましたし、ゴーシェはニートかな。
みんな月世界という社会に出てちゃんと仕事を始めたわけです。もう箱庭にいた時のセーラームーンごっこみたいな永遠の戦いからは卒業です。

「宝石の国」の序盤、フォス以外の宝石達は、短編で言う所のヒロインの役どころであって、全員が主人公のフォスを守るために自己犠牲を払って砕ける宿命(役どころ)を背負ってました。
それが最終的に箱庭を抜け出して月人達と同化する事で、自己犠牲の運命から解放され、やっと自由で幸せになれたわけです。(特にカンゴーム)
これは、市川先生自身がマンガのヒロインを毎回必ず自己犠牲で壊してしまうという呪縛を克服して、普通に幸せになれるヒロインを描けるようになった事を意味するのかもしれません。

そして、箱庭に残っていた金剛と宝石達も全員月に連れ去られ(フォスを除く)、さらにすでにさらわれてた宝石達も、全員「宝石を月人化するマシーン」によって、月人になりました。(本人達の希望の結果。つまり全員が月人になりたがった)

フォスを守るための駒、盾にされていた宝石達は、ここに来て逆に全員でフォスだけを裏切る事で幸せになれました。

つまり、この話で市川先生が伝えようとしてるメッセージはこうなるでしょう。
たしかに社会から隔離された箱庭に引きこもっている限り、純粋でいられるかもしれない。でもいつまでもそうしてるわけにはいかないでしょ。箱庭にいたって何も起きないもん。いつかは社会に出て、勉強したり仕事したり結婚したりしていかないとダメだよ!

市川先生の描く箱庭の短編が大好きな私のような読者にとっては、急にこんな説教臭いメッセージを飛ばされても耳が痛いというか、受け入れがたいものがあります。ラーメン屋に来てメッチャ身体に悪そうなラーメンをうめ~って食ってたら、急に店主が「こんな体に悪いもんよく食うな~。もう食うのやめたら」とか言い出したみたいな感じがしなくもない。

「宝石の国」を描き始めた当初から市川先生がこんな風に思ってたとは思えません。むしろ最初は「箱庭に引きこもってたいよ~」と思ってたんじゃないでしょうか。ずっと短編集で描いてきたように。

しかし、「宝石の国」を描いていく中で、色々壁にぶち当たってそれらを乗り越えていく内に、市川先生自身もまた、成長していったという事ではないでしょうか。

そうして箱庭の世界に限界を感じて、ウンザリして、破壊するに至ったわけです。
純粋な世界、純粋な存在よりも、社会があっていい事も悪い事もある普通の世界、男も女もいて、美人もそうでない人もいる普通の人間たちが一番素晴らしいよ!という事に気付きました。
純粋でいるのをやめる事で、ようやく高校生の頃に抱いてた理想の世界から卒業したわけです。

しかし、市川先生が成長してったといっても、タダで成長できるわけではありません。成長には痛みという代償が伴います。
物語の中で成長していった主人公のフォスは、市川先生の分身です。
フォスは、最初は箱庭の純粋な世界、純粋な宝石達を信じてました。
しかし、次第に金剛先生や先生をかばう宝石達、箱庭世界の在り方に疑いを向け始めます。
そしてついに箱庭から出て月に行く事で、箱庭の欺瞞が暴かれ、決定的に箱庭と対立して、宝石達、金剛先生、箱庭と戦い、破壊しつくします。箱庭に閉じこもっていずれ砕ける運命を待つばかりの宝石達を救うには、箱庭を破壊して彼らを連れ出してあげるしかないからです。
この過程で、フォスはズタズタに傷ついて、どんどん化け物のように変化していきます。純真だった最初の頃のフォスは見る影もなくなります。そして最後に”宝石”だったフォスは”人間”に成り果てます。
このフォスが辿った過程は、まさに市川先生自身が辿った過程でもあるでしょう。
市川先生は「宝石の国」を描く中で、自分自身が一番ズタズタに傷ついていきました。ですが、だからこそ全ての宝石達を救済する展開が描けました。ただし、その中にフォス=市川先生自身だけは含まれてないのです。

ちなみに、市川先生はインタビューで無量寿経というお経の一節について触れてます

そのお経を高校在学中ずっと読まさているうちに、「極楽」と言われる“すべてのもの”が助かるような所でも、宝石は装飾にしかならないんだなとぼんやり思いました。

”極楽浄土ではすべての者が助かる…ハズなのに、そこで宝石に限っては助からずに装飾として永遠に使われ続けてるのか…。”市川先生が高校生の頃に思ったこの問題こそが宝石の国のアイデアを生んだそうです。
だから、当初エクメアの話では、金剛先生が祈って助かるのは月人だけでした。
しかしそこで、市川先生は無量寿経の事を思い出して、やっぱり宝石も救済してあげないとかわいそうだと思い直したのかもしれません。カンゴームも「エクメアと一緒に無に行きたい~」とか言い出したし。
もしも金剛先生に祈らせて月人だけが全員”無”へ行ってたとしたらどうなってたでしょう?
宝石達はもう月人との戦いから解放されてハッピーエンド…でしょうか?しかし、平和な世界で永遠を生きるというのは月人達の暮らしと同じです。月人達はそれで永遠に死ねない苦しみに陥ってました。宝石達を月人の二の舞にするわけにはいきません。
おそらくそういう理由で、後付けで宝石とアドミラビリスも救済に含まれる事になりました。
(さらに付け加えておくと、宝石達は当初、月人とは違って何千年生きても別に平気。な雰囲気がありましたが、金剛先生が祈り飽きて壊れた。とかイエローダイヤモンドが長生きしすぎて壊れた。みたいな話が段々出てきて、やっぱ宝石もずっと生きてるとしんどくなるらしいという雰囲気に後付けでシフトしてった気がします。)

さて、金剛先生の正体は地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は全ての苦しんでる人々を救済してくれます。
しかし、じゃあ菩薩自身は一体誰が救ってあげられますか?金剛はやがて、無限に祈り続ける事に疲れ果て、壊れてしまいます。当然の帰結です。さらにエクメアが言うには壊れちゃった金剛が祈っちゃうと一発で全ての月人、宝石、アドミラビリスが消滅するらしく、それで永遠に究極ボッチになるのがイヤだから祈ってくれないらしいです。
高校生だった市川先生は、「宝石の国」の世界と金剛先生に救ってもらう側の立場でした。
しかし、成長した市川先生は、むしろ作者である自分が金剛先生を救ってあげなきゃいけないと気付きます。
故に、市川先生=フォスは金剛先生の右目を引き継いで、救われる側から救ってあげる側に回ったのです。自分が救う側(菩薩)になった以上、もう誰にも救ってもらえません。それでも、それを良しとするしかない。
だからフォスは現在ああなってしまってるのであり、それは表面的にはズタボロで美しくないように見えますが、実は本当に気高く勇気のある、美しい結末だと言えます。(まあフォスは状況に振り回され続けて操られた結果的にこうなっちゃったんだけど、そうさせたのは市川先生です)物語の初めの頃は、表面的にはみんな純粋で綺麗に見えますが、内実は欺瞞に満ちてインチキでウソだらけだったので、真逆の状態に着地しました。

「宝石の国」はまだ連載が続いており、まだまだこのあとの展開でどんでん返しが起こる可能性もありますが、読んでる感じだとこのまま完結に向かうんじゃないかなって気もします。

なんかtwitterとか見てると、「宝石の国は地獄!!」みたいな感想が一杯出てきます。
今回の記事は大部分が私の妄想だけで書かれてますが、もし仮に今回書いた事が割と当たってたとしたら、市川先生は読者を苦しめるためにわざと地獄を描いてるというよりは、素直にその時の気分を描いていったらこうなってっただけ…なのかもしれません。

とにかくインタビュー読む限りは最初から構想があったわけではないらしいですからね。
ストーリーが地獄みたいな転換を繰り返してるとしたら、それと同じくらい市川先生にも意識の変化があったというだけかもしれません。

市川先生は成長していったのかもしれませんが、私達読者がその変化に付いて行けるとは限りません。

私はまだまだ箱庭に引きこもっていたいので、市川先生にはまた以前のような短編を描いてほしいところです。

ですが、市川先生は成長してしまったとしたら、箱庭マンガはもう描いてくれないかもしれませんね。