今回もまた、マンガのネタについての話です。
マンガというのは、描くのが大変です。
「マンガ家になりたいなあ」と思ってるけど、決してマンガを描かない人が世の中にはメチャクチャ沢山いるそうですが、さもありなんです。
どんだけ手を抜いてテキトーに描いても、それでもマンガを描くのは大変です。
マンガ家になりたい人がマンガを描けない根本的な原因は、マンガを描くのに労力がかかりすぎるからだと私は考えていました。
ですから、もっと手を抜いてマンガを描けるようにするために色々と工夫を考えてきました。
例えば、背景を描くのは死ぬほど面倒ですから、UE5で背景をレンダリングする事で、一切背景を描かなくて済むんじゃないか、みたいな事を試したり。
はたまた、キャラを描くのさえ面倒だから、キャラもCGに置き換えちゃえ!という事を試みたり。
まあ、色々やりましたが、それでも依然としてマンガを描くのは大変です。
それにしても、世の中の大抵の人はマンガを読んだことがあると思うし、そして私も含めて大抵の人が「マンガ家になりたいなあ」と一度は思ったことがあるんじゃないでしょうか。
この「マンガ家になりたい」という気持ちは、厳密にはどういう意味なのでしょうか?
単に成功してお金持ちになりたい!というのであれば、別にマンガ家でなくともよいハズです。
マンガ家のすごい所は、”自分の頭の中にある想像やイメージを、絵やストーリーという具体的なカタチに落とし込んでアウトプットできる能力”(イメージアウトプット能力)であると言えます。
つまり、イメージを可視化できる能力です。まあこれはマンガ家に限らず絵師さんなんかも同様でしょう。
それだけでなく、漫画家はそうやってアウトプットしたマンガを出版する事でお金をもらって食っていけているという点も重要でしょう。
これはつまり多数の読者から認められ、社会から承認されている状態です。
というわけで、マンガ家になりたいな~という気持ちの内実は、①イメージアウトプット能力 ②承認のセットでしょう。
ところでマンガ家の中には本当は映画を作りたかったけど、無理だったからしゃーなくマンガ描いてる人も多いようです。
映画やアニメは個人の力では制作不可能です。そもそもキャストを沢山集めないと無理だし。
マンガならギリギリなんとか個人一人の力で制作可能です。まあ他にも小説とかビジュアルノベルという手もありますが。
私自身、定期的にマンガを描きたい気分が盛り上がりってきがちで、最近またそういう気分になってきています。
以前はゲーム制作の方に意識が集中していました。別にストーリーを語りたいんだったらゲームでも語れるだろうから、ゲーム制作に一本化しちゃえばいいじゃんと思ってました。
しかし、ゲームデザインについて研究してる内に、ゲームは体験を与えるものであって、ストーリーとは必ずしも相性が良くはない事を知りました。
ですから、ストーリーを語りたいんだったらそれはゲームじゃなくて他でやるべきという事です。
つまり、ゲームも作りたいし、ストーリーもやりたいならゲーム制作と並行する形でマンガ制作をやるしかありません。
とは言え、マンガを描くのは大変ですし、ゲーム制作の片手間での作業となると、リソースが限られてきます。
人生、何でもかんでもやみくもにマンガを描きまくるほどの時間は残されてないという事です。
とすれば、ゴール(着地点)を決めて描く必要があります。
昔は私も「マンガを描くんだったらマンガ家になるのがゴールだろう」などと思ってましたが、そもそもとしてプロの漫画家になる事自体、非常に難しいです。
さらに言うと、漫画家になってからも一層大変だと言えます。
ですから、私はマンガは描きたいとは思うものの、漫画家にはもはやあんまり憧れてません。
第一、漫画家になるには描いたマンガが人気になる必要がありますよね。
ですが、描いたマンガが世間に受けるかどうかは、作者の問題というより社会の方の問題です。
つまり、マンガの人気は作者にはコントロール不可能です。(なるべくウケを狙って描く事は可能っちゃ可能ですが)
大人気の漫画家も、ちょっと時代が違えば人気になれなかったりします。
たとえば、ジャンプで長期連載してたマンガが、連載終了してから次回作を描いてみるとまったくウケずに打ち切りになったりします。
この場合、その作家はたまたま作風が時代にマッチしてウケてたけど、数年経てば時代が変わってもはや合わなくなったという事でしょう。
マンガの人気は社会全体のその時の気分次第と言えます。
それに、作家が天才すぎると時代が付いてこないケースもあります。
ゴッホやカフカや宮沢賢治なんかはほとんど死んだあとで評価され始めた天才達です。
逆に言えば世間は天才達をただちには理解できなかったわけです。
すなわち、私がマンガを描くとして、イメージをアウトプットするたのしさは得られるでしょうが、そのマンガが承認されてそれで食っていける…みたいな事は自身でコントロールできる事ではありませんし、確率的に言ってあまり期待できないと考えた方がいいでしょう。
という事は、マンガを描くのはメチャクチャ大変だし、しかもゲーム制作と並行してやってかないといけない、しかも描いても全然誰にもウケないし1円にもならないかもしれない、それでも生きてる内にこれだけは描いておきたい…みたいな作品を描かなきゃいけません。
メチャクチャ重要なマンガというわけです。
結論としては、私がマンガを描く上でのゴールは、”重要なマンガ”を描く事だと言えそうです。
重要なマンガってなんだ?
では次のステップですが、重要なマンガってつまり何なんだ?
誰にとって重要なマンガかと言えば、作者の私自身にとってです。
であれば、私が重要だと思ってる既存の作品(漫画以外も含む)を列挙してみれば、重要なマンガがどういうものか分かるかもしれません。
・まどマギ
・寄生獣
・ベルセルク
・市川春子 短編集
・風の谷のナウシカ
・詩野うら 短編集
・ナンバーファイブ
・GOGOモンスター
・少女終末旅行
・最終兵器彼女
・なるたる
・デビルマン
・もののけ姫
・FF7
・FF9
・マザー2
・Undertale
・月姫
・ひぐらし
・ICO
・星の王子様
・宮沢賢治
私が「重要だ」と感じる作品がどういうものかというと、読み終わった後に「マジで凄すぎるものを観てしまった…」とか「こんな作品を描けたら悔いが無いだろうな」と思うような作品です。
今まで私は自分の好きな作品に対して冷静になれなかったので、分析できなかったのですが、あらためてこうやって作品を羅列してみると、なんとなく共通点がぼんやり見えてくる気がします。
なんちゅうか、どの作品もおおむね”哲学的”な感じがします。
”哲学的”ってなんだ?
哲学的…と言うのは簡単ですが、自分でそれが描けるようにするには、「でも哲学的ってつまりどういう事?」という点まで詰めて考える必要がありそうです。
そもそも哲学についてどういうものか考えないといけなさそうです。
哲学とは、「真理を探求する事」だそうです。探求という事は、現時点ですでに分かりきってる事はもはや探求する余地が無いので哲学ではありません。
“1+1=2″みたいな事は哲学では無くて数学です。物理法則は物理学です。
昔は何でもかんでもが哲学だったようですが、科学的に解明された分野は哲学からイチ抜けして独立した学問になるみたいです。
アリストテレスは何でもかんでも多くの分野で功績を残しましたが、後になってから学問のジャンルが別れただけで、当時のアリストテレスからすれば全部ひっくるめて哲学をやってただけだと思います。
つまり、哲学というのは教室で居残りさせられてる生徒みたいなもんで、ちゃんと解明された分野から抜けてって、いまだに居残りさせられてる奴らがいまだに哲学の対象になってるという事でしょう。
という事は、”哲学的なマンガ”がどういうものかというと、「みんな誰しもが一度は考えるけど、考えても答えが出ないような事について描かれてるマンガ」だと言えるのではないでしょうか。
私は”遊戯王”や”ジョジョ”みたいなバトル漫画も本当に大好きなのですが、”重要な作品だ”とかいうのとはちょっと違う気がします。バトルの面白さとか恋愛の面白さは、読者の本能に訴えかけるもので、それらは分かりきってる面白さであって、未知の真理を探究するのとは違うからです。
ちなみに、哲学と言うとなんか観念的に理屈をこねくり回して理論形成していて、あんま本を読んでてもピンとこないケースが個人的には多いですが、”哲学的なマンガ”はストーリーの成り行きで結果的に哲学的な話になってしまう感じが多い気がします。
また、哲学的マンガとひとくくりにしても、実際はそれぞれのマンガが異なるテーマを持っているので分類して考えないといけなさそうです。
哲学的マンガのジャンル
・ハルマゲドン系
”デビルマン”(漫画版)が面白いのは、悪魔を主人公にしたところです。最初はデビルマンは他の悪魔たち相手に戦っていきますが、段々と展開がエスカレートしていくにつれて、人間たちは悪魔狩りを始めます。その挙句、無関係のヒロインも人間たちによって惨殺されます。「人間こそ本当の悪魔じゃねえか!」みたいな事になって行きます。
デビルマンがどういう意味で哲学的なのか?というと、「人間ってなんだろう?」みたいなテーマがあります。人間の醜さをことさら強調して描く事で、人間の本性ってこういうものかもしれないな…みたいな真理を突いた的な空気になります。(哲学は真理の探究)
現代日本を舞台に異形(悪魔)が紛れ込む…みたいな事もデビルマンの発明らしいです。
さらにデビルマンでは聖書や神話のモチーフを取り入れています。そういう事もあって、最終的に展開が究極エスカレートしてにっちもさっちも行かなくなってから、最後にハルマゲドン(最終戦争)が起きて、要するにみんな死んで終わります。
”ドラえもん”では、展開がエスカレートする前に、なんかのび太がちょっと失敗した。みたいなオチが付いてリセットされます。
しかし、リセット無しで展開がエスカレートするがままに任せてしまうようなマンガは、最終的にはデビルマンのようににっちもさっちも行かなくなってハルマゲドンで世界が消滅して終わるしかなくなりがちです。
つまり、風呂敷が畳めなくなった結果としての爆発オチみたいなもんかもしれませんが、それでも凄まじい迫力で描かれてしまうと読者としても「なんだか凄い物を観てしまった…」という感じが出ます。
永井豪先生の自伝的マンガ、「激マン」では、デビルマンを描いた時の経緯が描かれてます。当初の構想ではハルマゲドン的な結末なんて、まったく考えられてなかった事がよく分かります。そもそも飛鳥了なんて登場してすぐ死んじゃうモブキャラのハズだったと言うんですから。
ところで、デビルマンの系譜図というものがあります↓
『デビルマン』がなければ、エヴァは生まれなかった? カルチャー史を紐解く
デビルマンの影響を受けてるっぽい作品を羅列してみてる系譜図です。
この系譜図によると、”ベルセルク”、”寄生獣”、”最終兵器彼女”、”エヴァ”、”ヘルシング”といった、私が重要と考える作品群がデビルマンの系譜に収まるらしいです。
まあ、でも言われてみるとそうかもしれない…。
ハルマゲドン系というだけで言えば、”なるたる”や”ナンバーファイブ”、”まどマギ”、”もののけ姫”も入りそうです。
”寄生獣”や”まどマギ”では、ミギーやキュゥべえが宇宙人的な目線で「人間ってヘンな生き物だよなあ…」みたいなツッコミを入れまくってくるのも哲学性(人間って何だろう?)を高めてると思います。人類を客観視する目線が入ると哲学性マシマシです。
というわけで、哲学的マンガとしてのデビルマン系マンガについてまとめます。
1、主人公はダークなパワー(敵側のパワー)を持ってます。人間の味方だけど、悪魔の気持ちも分かる的な状態です。
2、人類の愚かさ、汚さを描きまくります(こうすると「人間って何だろう」という哲学的テーマが出てくる)
3、展開がひたすらにエスカレートしてって、にっちもさっちも行かなくなったらハルマゲドンで敵味方全員を殺して終わります(こうすると「何だかすごいものを観た…」という雰囲気が出ます)
ちなみに1999年までは、ノストラダムスの予言が流行ってたり、世紀末ゆえの終末観ムードがありました。
だからこそハルマゲドン的なオチが流行ってたのかもしれません。
だとしたら、2000年以降は時代のムードとしてもうそういうのは流行らないという可能性もあります。
・星の王子様系
星の王子様はマンガじゃないですが私の好きなオハナシです。
ストーリーはかなりとりとめがないですが、なにか大事な事が書かれてる気がします。(真理の探究)
しかし、あらためて読んでみると、作者が何を言わんとしてるのか大体分かってきました。
訳者あとがきによれば、作者は「かつて子供だった事を忘れずにいる大人はいくらもない」と言ってたそうです。
つまり、この作品で書いているのは「子供心を忘れるな」という事です。
星の王子様では作者自身が主人公として出てきます。星の王子様は作者の子供心の象徴でしょう。なにしろ王子様は、普通の大人どもが理解できなかったゾウを飲み込んだウワバミの絵を一目で理解したのですから。
作者に限っては大人になっても子供心を忘れていないという事です。
それからは子供心を失った大人たちの愚かさがひたすら延々と書かれます。
最後に王子様が死んでしまうのは、つまりなんだかんだ言っても作者自身の子供心も失われつつあるという意味でしょう。
今までは意味がハッキリわからなかったからこそ星の王子様に未知数の魅力を感じていましたが、こうして言わんとする事が分かってくると、「なんか説教くせえなあ」という気がしてきて魅力が減ずる気がしますね。
子供心と言えば、”GOGOモンスター”もあらためて読み返すと、「子供の頃に見えていた自分だけの世界を、成長によって失う事の恐怖」が描かれてるマンガですね。
・少女終末旅行
デビルマン系の漫画が、ハルマゲドンに向かって突き進む人類を通して「人間とはなんなのか?」を描いていたのに対して、”少女終末旅行”では、ハルマゲドンの後の人類滅亡してしまった世界、ポストアポカリプスを描く事で「人類とは一体何だったのか?」という事を描いています。
つまり現在形じゃなくて過去形だという事です。
人類という種は、ある時点から生まれたわけですが、とすると必然的にいつかは終わりが来るはずです。
なんか資源を使い果たして割とすぐ滅亡するかもしれませんし、どんだけ上手く存続したとしても、太陽や地球の星自体に寿命がありますからどうあがいてもいつか終わります。
現在でもロシアとウクライナが戦争してますし、ほんの一歩間違えれば全面核戦争に発展してただちに人類滅亡しかねない事態に我々は直面してます。
また、新型コロナウイルスのような凶悪な感染症がパンデミックを起こせばあっけなく人類滅亡するかも…みたいな気分も、コロナ禍の渦中にいる我々にとってはリアルです。
まあそんなわけで、絶対にいつかは起きる事態としての人類滅亡の後の世界を想像してみると、かなり変な気分になってきます。
こういう事をちゃんと突き詰めて考え続けることのできる人間は少ないでしょう。
絶対にいつかはそうなるわけですから、ポストアポカリプスは一種の真理であり、だから哲学的と言えます。
どんだけ偉大な芸術家だろうが偉い人だろうが、人類滅亡してしまえばもう誰も観測しないし憶えてもいないので、全ては失われます。
少女終末旅行のようにガチでポストアポカリプスを描くことは、とは言えこうして作品を描く事自体が、人類が滅びちゃえば全部無意味になるんだよな…と言う理屈になるので、描けば描くほど虚無感に襲われるだろうなと予想されます。ゆえに、主人公のチトやユーリも相当虚無の顔をしてます。
終末後を描くのはメンタルによくなさそうです。
ちなみにドラえもんでも意外とポストアポカリプスが描かれてたりします。例えば「パラレル西遊記」では妖怪が人類を滅ぼして人間に取って代わってしまってます。「雲の王国」でも大洪水で人類が滅んでます。まあ”ドラえもん”はやっぱり最終的にはリセットされるので大丈夫ですが。
・詩野うら作品
詩野うら先生は、空想をトコトンまで突き詰めて考えてマンガに描かれてます。
空想なら「真理の追究」とは違うから哲学的じゃなくね?と思うかもしれませんが、割と普遍的な誰でも考えた事があるような空想だったりするので、そういう意味で哲学的な感じが出てきます。
たとえば”虚数時間の遊び”という作品は、時間が止まってしまった世界に永遠に閉じ込められてしまった人の話です。
そういう状況で、人はどうやって無限の時間をヒマつぶしするだろうか?という事がすごいディティールで描かれてます。
この手の空想は、有名なネタ元の「5億年ボタン」というマンガがあります。これのせいでみんな一度は誰もいない世界で永遠に近い時間を過ごす事について想像したことがあるハズです。
ちなみに”らせんの宿”というフリーホラーゲームも、5億年ボタンにインスピレーションを受けてます。
”金魚の人魚は人魚の金魚”という作品では、不死の生物である”金魚の人魚”が出てきます。
”不死”というテーマも、まあ普遍的な空想という意味で哲学的です。
”金魚の人魚”は不死なので、宇宙の果てまで行ってしまったり、人類が滅んだ後もずーっと生きてたりします。
ちなみに私も昔、東方の藤原妹紅という不死のキャラの二次創作で似たような話を描きました。
というわけで、普遍的な空想についてディティールを突き詰めて描いていくとかなり哲学的なマンガになるという話でした。
ちなみにやっぱりドラえもんでも、たとえばのび太が無人島で10年過ごすハメになる話とかで似たような味わいがありますが、これもリセットされるから大丈夫…かというと、この話は割と大丈夫じゃなく終わります。
・その他の作品
ここまでは、ある程度作品の意味が分かるものをピックアップしてきましたが、理解の範疇に収まらず、分析不可能な作品もあります。
まず、”宮沢賢治”作品です。
私は宮沢賢治の物語が大好きですが、なぜ大好きだと感じて、重要だと感じるのか、よく分かりません。
そもそもこれらの作品が哲学的なのかどうかさえよく分かりません。
「銀河鉄道の夜」なんかも好きですが、考えてみると相当とりとめがない話です。なんなの?この話は一体??
まあ、宮沢賢治が100年近く経っても人気なのは、そういう”謎”が魅力という事もあるかもしれません。
とにかく、何だかよく分からない以上、自分が描くマンガに要素を取り入れる事も難しいです。
次に、やっぱり”市川春子”作品です。
市川先生のマンガについては前回、前々回の記事で色々書きました。
市川先生の短編に共通するストーリー構造については分析してみせたものの、じゃあ、どうしてこのストーリー構造が素晴らしいのか?については正直言っていまだによく分かりません。
それでも、たった数十ページの短編にも拘らず、「何だか凄い物を読んでしまった…」という気分になります。
市川マンガが素晴らしいのはストーリーだけでなく、絵柄、構図、セリフ回し、デザインなどの全てのセンスがダンチなので、総合的な読書体験の質が他を凌駕している…と言う事なのかもしれません。
まあいずれにしろ、いくら自分にとって重要でも、ちゃんと理解できてない以上はマンガを描く参考にするのは難しそうです。
作品のボリュームについて
マンガのページ数はどれくらいが適してるのでしょうか?
デビルマンは全5巻で大体1000ページです。
しかし、プロのマンガは連載の都合と言うものがありますから、ある程度の尺が不可欠になってくるという事があります。
純粋に哲学的な体験を与える上で、そんなに尺が長い必要があるんだっけ?という点は考えてみた方がいいです。
何故なら、尺が長いとそれだけ労力がかかって大変になるからです。
特に、仕事じゃなくて趣味でマンガを描くなら1ページごとに原稿料がもらえるわけでもなし、無駄にページが多くても作品が冗長になるだけで、何一ついい事はありません。
ベルセルクは蝕に至るまでに12巻かかってますが、純粋に蝕を描きたいだけならもっと短くまとめる事は可能だったでしょう。
かと言って、ページ数が少なすぎるとそれはそれで良くないでしょう。
たとえば30ページの短編でハルマゲドンが起きても読者はまだ作品に入り込めてなくて、置いてけぼりになったりします。
とは言え、上でリストアップした個人的に重要な作品の中にも、短編が含まれています。
詩野うら先生の「金魚の人魚は人魚の金魚」は100Pです。虚数時間の遊びはたったの50Pです。
市川春子先生の「日下兄妹」も60Pしかありません。
つまり、上手い事描けば、たったの50Pの作品でも「なんだか凄い物を観てしまった…これは重要な作品だぞ」という感じを出す事は可能だと言えます。
マンガを1日1ページ描いてったとしたら、1000ページ描くには3年かかります。50ページなら2カ月弱で済みます。
どちらかを選べと言われたらまあ、1000ページ作品を一つ描くより、50ページ作品を20個描く方がいいかな…という気がします。数打ちゃ当たると言いますし。
おわり
今回の記事では、私がマンガを描いていくとしたら、どこに落としどころを見つければいいのかについて考えてみました。
マンガを描いてもそれが人気になるとか、それで食っていけるという事はあまり期待できません。ウケるかどうかは作者ではなくて社会の空気しだいだからです。
とすれば、まったくウケないという事態も覚悟したうえで、自分にとって重要な作品、つまり哲学的なマンガを描いておくべきだという結論になってきます。
で、哲学的なマンガって何だろう?と考えてみると、大体以下のように分類できます。
・ハルマゲドン系 →「人間って何だろう」
・星の王子様系 →「子供心って大事だよね」
・ポストアポカリプス系 →「人類とは一体何だったのか?」
・誰でも一度は考える空想系 →「もしも不老不死になったらどうなるんだろ?5億年ボタン押しちゃったらどうなるんだろ?」
・分析不可能系
こうやってまとめてる内にハッ…と気付いた事があります。
どの哲学的マンガのジャンルにも、”ドラえもん”の存在がチラついてくるという事実です。
今まで、ドラえもんが哲学的で重要なマンガだなんて思ったことは、あんまありませんでした。
その理由は、幼年誌で掲載されてる都合上、展開をエスカレートさせる事ができず、話を突き詰める事が出来なかったという事が大きいでしょう。
実際、藤子先生の短編集に目を向けると、哲学的なマンガがドバドバ出てきます。
つまり、ドラえもんは一見描き尽くされてるように見えますが、実はまだまだ金脈が眠ってるんじゃないか?と私は考えます。
ドラえもんがブレーキをかけてしまった展開を、自由にエスカレートさせるだけで哲学的に面白いマンガをいくらでも描けるかもしれません。
趣味で描くマンガは、掲載紙の都合を考えて自重しなくていいというメリットがあります。
というわけで、私がこれから重要なマンガを目指して描いていくうえで、今のところ一番目を付けているのはドラえもん的なマンガです。