余談

唐突に余談を挿入しますが、以前私は100円をなくして探し回ってる人を見かけました。
その時「100円を無くしたら世の中にどのような影響があるんだろう」と思って考えを巡らせてみました。

その100円があったならその人は本来セブンでコーヒーが買えたかもしれません。
100円でコーヒーを売ったセブンの店員はその100円でデイリーヤマザキのホットケーキサンドを買ったかもしれません。
デイリーヤマザキの店員はその100円で募金をしたかもしれません。
募金を受け取った慈善団体は…本来はこうして色んな人の手に渡って使われるはずだった100円が失われたのです。
これはつまり無限大の経済損失という事でしょうか?
んなバカな。

他の仮説を考えてみました。
まず、まどかちゃんが100円を持ってます。
まどかちゃんは100円をさやかさんに払ってマッサージしてもらいます。
さやかさんはその100円を使ってほむらちゃんに宿題を写させてもらいます。
ほむらちゃんはまどかちゃんにその100円で膝枕してもらいます。再びまどかちゃんは返ってきた100円をさやかさんに…

さて、ここでは一体何が起こってるのでしょうか。
私はお金は使うと無くなるものだと思ってたのですが、こうしてみると人と人の間でグルグル回る物だという事がわかります。
つまりお金は世の中を流れる速度が問題なのです。
上の例で言えばもしまどかちゃんが最初に100円を貯金箱に入れてしまっていたら本来起きるはずだった経済活動は何も起きないという事になるかと言うと、世の中にあるお金はこの100円玉だけでは無いので、そういう事にはなりません。

100円が世の中から失われようが、世間ではものすごい額のお金が日々取引されてます。
100円が無くなるというのは、そのお金の回転速度をホンのチョッッッピリだけ弱めるだけの意味合いでしかないという事です。

本文

「世俗の思想家たち」という本を読みました。
歴史に登場した代表的な経済学者達を、その生い立ちと時代背景と思想とビジョンを交えて紹介してくれる本です。
この本を読んだキッカケは、「金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント」という本で強いプッシュと共に紹介されていたからです。
「金持ち父さんの~」ではとにかくファイナンシャルリテラシーを身に付けろ!と書かれていたのでとりあえず経済学の本にトライしてみた感じです。

私が思うに、本を読むのは時間がかかる物です。
「国富論」とか「資本論」とか、学生の頃に読んでればよかったでしょうが、今となってはイチイチ原著を読んでるヒマは人生に残されてないって感じがします。
もちろんマルクスの研究をするなら資本論は読むべきでしょうが、経済学についてざっと知識を入れたいだけならこの「世俗の思想家たち」のようなざっと全体を見渡せる本があるとありがたいです。

しかもこういう本は面白く書かれてるものが多く、読んでて眠くならないのが素晴らしいですね。
こういう系の本としては他には「証券投資の思想革命」という本は株式市場について研究した人達の歴史が紹介されてますし、「暗号解読」という本では暗号の作成と解読にまつわる歴史が紹介されてます。
3冊ともド素人の私が読んでも面白かったのでオススメですよ。

この本は図書館に返却してしまうので、その前に登場人物たちの主張やビジョンをメモッておこうと思います。

アダム・スミス

アダムスミスが主張したのは、市場は放っておいても、いや、放っておいた方が全てが良い感じになるという事です。

例えばある町に果物屋が1件しかないとします。
そしたらみんなこの果物屋で買うしかないので、果物屋は調子こいて値段を釣り上げます。
それに対して靴屋は町に10件あって、価格競争で安くし合った結果全然儲かってません。

めちゃくちゃ果物屋が儲かってる様子を見て、ある靴屋は自分も乗っかろうと果物屋に転向します。
この新しい果物屋と前からあった果物屋は価格競争するハメになって果物の価格は下がります。
これが市場原理です。

供給より需要が多い物は、値段が上がります。逆なら下がります。
最終的には全ての商品が丁度よい価格に収まるという事です。

もし談合で集団で価格協定を結んでも、他の誰かが抜け駆けして参入してくるはずなので、無意味なはずという事になります。

アダムスミスのビジョン

市場は、資本家に財を蓄積させます。
この財は生産設備への投資にも向かいます。
機械などの設備が増えれば、労働者の生産性は向上し、賃金や利益も増えます。

賃金が増えれば労働者たちは子供を育てる余力が増えるので、労働者の人口が増えます。
こうして市場は拡大していき、人々の生活は向上、人口も増大していくだろうとアダムスミスは考えました。

とは言え、いつかは資源を使い果たすとか、これ以上生産性向上するスキがない所まで辿り着いてしまいます。
こうなると結局労働者は生活水準ギリギリまで賃金は下がるだろう。

これがアダムスミスが見た経済の行く末です。

振り返ると

アダムスミスの理論は当時には完全に合致していましたが、今では多国籍大企業が現れたりなど当時とは状況が様変わりして市場原理も変化してきています。

マルサス

もう書き疲れてきたのでザックリ書くと、マルサスはアダムスミスが言うみたいに人間は自分の賃金と相談しながら子供の数を決めたりしない、生殖本能のまま子作りしまくる!と主張しました。
各家庭が4人とか5人子供を作っていったら、人口は倍々ゲームで増えてすぐにパンクします。
資源を顧みず人口が増えまくった結果、人間は常に食糧問題に苦しむ続けることになるだろうと考えました。

振り返ると

今では先進国の人口増加率はゼロないしマイナスに近づいており、倍々ゲームで詰むことは無さそうな算段が強まってます。

リカード

リカードも、アダムスミスが考えているようには世の中進まないと考えました。
当時は穀物価格がとても上がっており、しかも海外の安い輸入穀物にも高い関税がかかっていました。
穀物が高いと地価や地代が上がるので、地主は大儲けします。

しかし事業家は、とにかく労働者が食べていけるだけ給料を払う必要があるので、食べ物が高いと利益を全部給料として払うハメになります。
これでは儲かるのは地主だけです。
しかも人口が増加していくとますます食べ物の需要が増えるので穀物価格がさらに上がり、地主だけはさらに儲かっていくでしょう。

振り返ると

リカードの後の時代でイギリスでは関税が下げられて安い穀物を輸入できるようになりました。

ロバート・オウエン

オウエンはニューラナークの自分の工場にユートピアを作りました。
オウエンはこれをさらに発展させようとしてアメリカにニュー・ハーモニーというコミューンを建立しましたが、住民の裏切りにより失敗してしまいました。
しかしオウエンの考えは当時の労働組合に感銘を与えて、最終的に大規模な労働運動に発展しました。

サン・シモンとシャルル・フーリエ

労働者のユートピアのビジョンを描き、活動しました。

ジョン・スチュアート・ミル

ミルの主張は、経済法則は不変の法則でいじりようがないけど、富の分配には法則なんてないし自由だよという事です。
例えばリカードが言うみたいに地主だけが不当に儲かってるなら、政府が地代に高い税金をふっかけて他の人達に配ってあげればいいじゃないという事です。

だから誰かが不当に儲かったとしても、分配はコントロールできるから大丈夫って事です。

だからミルが見た市場の行く末では労働者はある程度裕福になってる感じです。
そしてみんなお金儲けの事を考えるのをやめて正義や自由の事を考え始めます。
ゆくゆくはユートピアみたいな感じになります。

マルクス

マルクスの考えはこうです。
まず、ある理想的な資本主義の世界を考えます。

そこでは物がその物自体の価値通りの値段で売られます。
労働者が時給600円で8時間かけて作ったものは4800円で売られます。
労働者には給料4800円が支払われます。

でもこれだと資本家は差し引き儲けゼロとなります。
実際の社会における資本家の儲けは一体どこから出るのでしょうか?

実際には労働者はサビ残させられているという事になります。
2時間サビ残させれば1200円の価値が発生して、資本家は1200円丸儲けできます。

労働者が働く工場は資本家がニギッてるためにこういう事が起きているとマルクスは言います。

労働者の賃金コストを抑えるために、資本家は工場に機械(ロボット)を導入して労働者と置き換えていきます。
今まで作るのに1000円かかってた商品がロボットにより100円で作れるようになりました。

しかし価格競争で最終的に販売価格も100円になってしまいました。
しかもロボットは動かし続けてる限りコストがかかるので、人間と違ってサビ残させられないので資本家の利益はゼロになっちゃいます。

しかし資本家は今度は90円で商品が作れるロボットを導入します。
これにより販売価格が90円に下がるまでは資本家はつかの間の利益を得られます。

こんな負のスパイラルを繰り返している内に資本主義経済は破滅します。

振り返ると

マルクスの言う物自体の価値って何だよという話になりました。
現実では物は価値じゃなく価格で売られてます。
マルクスの剰余価値とかの話は現実に適用できないんじゃないかという話になってます。

ホブソン

ホブソンは所得の不平等が行き着く末について考えました。
つまり金持ちがもっと金持ちになり貧乏人がもっと貧乏人になり格差が広がっていく流れの果てでは、なんとお金持ちも貧乏人もどちらも十分に物を買う事が出来ないという結論が出ました。
お金持ちはお金が多すぎて使い切れないし、貧乏人もお金が無いので物が買えないのです。

となると市場に売り物がダダ余りになっちゃいます。
お金持ちは使い切れないお金を投資するのかというと、しません。
なぜならすでに物が売れてない状況で、新しい商品を作るビジネスを始めたって儲かるわけないからです。

困ったお金持ちは使い切れないお金を海外に投資しようとします。
色んな先進国で同様の現象が起きて、世界は取り合いになり、戦争になっちゃいます。

資本主義はこうして帝国主義に行き着いてしまう、というのがホブソンの結論です。

アルフレッド・マーシャル

マーシャルは、モノの値段がその生産コストで決まるのか、それとも買った人の満足度で決まるのか、みたいな事について考えました。
例えばダイヤモンドは短い期間の間では、欲しがる人の満足度で価格が決まるだろうけど、長期的にはバンバンダイヤモンドが発掘されるから段々皆に行き渡ってきて、生産コストで価格が決まるようになるだろうと考えました。

ヴェブレン

ヴェブレンにとって実業家は略奪者でした。
ヴェブレンは経済を社会的な機械のように技術者によって管理されたシステムだと考えました。
そして実業家はこのシステムを妨害して混乱に乗じて利益をチョロまかすだけの存在だと考えられました。

ヴェブレンはゆくゆくは生産設備の全て把握してる技術者たちが実業家たちを追い出して経済を掌握するだろうと考えました。

ケインズ

この記事の最初の余談で話したように、世の中をお金がグルグル回る事で経済活動が行われます。
そして貯金箱にお金を入れてしまうと、お金の流れはせき止められてしまいます。
しかし誰もが自分のお金を貯金箱に入れるのではなく、普通は銀行に預金しますし、銀行は預かったお金を速攻で企業などに融資します。
企業は銀行から借りたお金を投資します。
なのでお金はグルグル回ります。

そのハズだったのですが、一つの問題がありました。
企業の投資先が常にあるとは限らないという事です。

企業が投資先が無いので銀行からお金を借りないという事になったら銀行でお金の流れが止まってしまいます。
これは非常にまずいです。

世の中が好況と不況を繰り返す原因はこれまで謎でしたが、どうもこれが原因のようです。

ケインズは企業が銀行からお金借りるのを渋っても、融資するお金の利息を下げれば企業は借りてくれるだろうと考えましたが、実際の大恐慌では何も起きませんでした。

というのも、みんなが失業して貧乏になったら物を買えません。
物が売れなければ企業は潰れて失業者が増えます。
もちろん物が売れないのに銀行からお金借りて投資しようなんてしません。詰んでます。

そもそも投資先という物は常にあるとは限りません。
鉄道だって日本全国に行き渡ったらそれ以上拡張しようがありません。
どんな事業でも投資できる量には限界があります。
そう考えると経済の構造は投資先が常にある事が前提になってるけど実際はその保証が無くてかなり不安定な物だという事がわかってきます。

ケインズのアイデアはこういうニッチもサッチもいかない状況になったら政府が支出を増やして公共事業を行って市場経済を活気づけようという物でした。

ケインズは政府が埋蔵金を埋めて民間企業に探索させれば解決するんじゃねと言った。

シュンペーター

シュンペーターの考えの前提となる世界では、すでに経済成長が終わっています。
そしてそこでは労働者や地主が利益を全てもらっていて、資本家は自分へのちょっとした給料以外には何も得られません。

しかしそこで革新的な資本家がイノベーションを起こして、今までより生産コストをずっと小さくしたり、まったく新しい製品を生み出します。
この資本家は、この時に既存の製品との差額などで利潤を得る事が出来ます。
でもいずれフォロワーが一杯現れて競争になって、利潤はすぐにゼロになります。

イノベーションを引き起こす起業家の絶え間なき創造的破壊の烈風があるから、投資する先が無くなるなんてことは起きないとシュンペーターは言います。

とは言え、最終的にはブルジョアジー達は、自分たちの合理性ゆえに自分たちの資本主義自体に疑問を持ち、それに攻撃を始めるそうです。
大企業はだんだん官僚的になっていき、最終的には資本主義は崩壊して社会主義になるそうです。

本の終わり

本の最後で著者は、最近は経済学から資本主義のビジョンが薄れて、代わりに科学のビジョンが台頭していると言います。
しかし経済学がはたして科学かというと、厳密な意味では科学ではないという意見です。
何故なら分子の運動と個々の人間の経済活動では全然話が違います。
それに、人間の経済活動はその社会と密接に関係していて、所変われば事情も変わります。
そんな中で細かい分析をしてみても、水がH2つとO1つで出来ているというような科学的厳密さは出ないのです。
こんな疑似科学的なビジョンが蔓延ったら経済学も終わりとちゃうか、というのが著者の意見です。

経済学が科学じゃなければ何なのか?
著者は、経済学の目的は、我々の資本主義(社会主義ではない)への理解を助ける事だ、と著者は言います。
著者は長年民主社会主義を支持していたのだそうですが、社会主義国家のボロボロさを見て失望したっぽいです。

経済学は、政治的リーダーシップを担う人が自分の中のビジョンを形成する手助けとなるべきだ、との事です。

読んでみて

この記事は書くのが疲れました。
この本はシュンペーターの紹介で終わってますが、その後も色んな経済学者が登場していると思いますし、続編が読みたいですね。

もっと最近の話を網羅した本も読んでみたいです。
経済について考えるのはなかなか面白いです。

みなさんも是非読んでみてください。
ここまで読んでくださってありがとうございました。