絵画の美学について
最近、岡田斗司夫さんのYoutubeチャンネルが面白くてよく観ますが、その中で、岡田さんが山田五郎さんのYoutubeチャンネルを絶賛していました。
山田五郎さんはYoutubeで絵画やその作家についての解説をやってるそうです。岡田さんはアートには全然興味ないのにどうしてそこまで絶賛するのか?
と思って私も試しに山田五郎さんのチャンネルを観てみましたが、実際面白すぎて動画を全部観てしまいました。
山田さんはアートの事を面白く解説してくれます。私が好きなのはドガやルソーの解説です。
そんな風に山田さんから色んな画家の事を教えてもらう内に思ったことがあります。
西洋の絵画と言うのは、昔は基本的に写真みたいにリアルに描くのを目指す物だったという事です。まあその中でも細かい流派の流行り廃りとかはあったみたいですが、基本的にはリアルなほど良いとされてたと思います。
何故なら、西洋では肖像画のニーズが大きかったからだと思います。肖像画なんだから、なるべく写真みたいにリアルに描いてもらわないと、似てなかったら困ります。
そんな中、19世紀に発明されてしまったのが”写真“です。
写真が撮れるなら、もう肖像画なんて描いてもらう必要なんて無くなりました。
肖像画に限らず、風景画でもなんでも、全部写真でよくね?もう絵画なんてオワコンじゃね?という空気になってきました。
それまで長年リアル一辺倒だった西洋絵画の美学は、強烈に揺さぶられたという事です。
そんな状況ですから、パリの辺りでは1860年~1900年くらいまで、ジャポニスムとか言って日本の浮世絵とかのブームが来てました。
浮世絵のような、リアル一辺倒とは全く異なる美学を追及してる絵をみて西洋人がぶったまげてカルチャーショックを受けたようです。
そういう時代の中で、マネとかモネとかドガとかルノワールのような印象派の人達は、既存の西洋絵画とは異なる、独自の美学で絵を描き始めました。
今挙げたような印象派の画家達は、今でこそ誰でも知ってて超有名になってますが、最初の頃は斬新すぎてほとんど理解を得られませんでした。
ゴッホなんかは、今では日本でもトップクラスに人気な画家だというのに、生きてる間はほとんど評価されませんでした。どんだけ描いてもみんなから無視されて、絶望してもう死のう…みたいなタイミングになってから、ようやくごく一部のセンスある人達が「ゴッホよくね?」とか評価し始めましたが、手遅れでした。
さて、結局のところここで何を言おうとしてるのか?というと、つまり、アーティストはまったく見た事もない斬新な独自の美学を打ち立てようとしたりしますが、新しい美学と言うのは斬新すぎるので、一部のセンスある人達が評価してくれるまでに数十年かかったりして、さらに大衆が評価してくれるまでにそこからさらに数十年とかかかりがちだという話です。
まあ、画家なら一部のセンスある人達、パトロンとかにさえ自分の作品を買ってもらえるまで耐えれば生活できますが、大衆を相手にする芸術、例えば漫画とか映画とかの場合は自分が生きてる内に評価されなかったりしがちです。
死んだ後でいくら評価されても自分はすでにその場にいません。
というわけで、美学がなんも無いとそれはそれで評価されないかもしれないけど、美学が斬新すぎても評価されるのに時間がかかりすぎてしまうという話でした。
ゲームの美学と制約
さて、ちょっとずつ本題に入っていきますが、私が最近考えていたのは、「昔のゲームって相当グラフィックスがショボかったけど、どうして当時は気にならなかったのだろう?」という事です。
例えば、最初期のテレビゲームである、PONGの画面を観てみましょう↓
究極にシンプルなPONGの画面ですが、今見ると、「むしろこういうデザインみたいでカッコよくね?」とか思います。
例えばモンドリアンの抽象絵画みたいな世界観でしょうか。
おそらく、当時の人々も、それまでテレビゲームというのを見た事が無かった状態で初めてPONGを見た時に、「こんな超クールなデザインのグラフィックス見た事ねえ!」みたいな美学を感じたかもしれません。
しかし、PONGの開発者にしてみたら、この究極にシンプルな白黒の四角だけで構成されたデザインを、わざと狙ってやったと言うよりは、”当時のコンピュータの性能ではこんな程度の画面しか出せなかった”というのが本音じゃないかと想像できます。
できることなら、もっとちゃんとした卓球台とかラケットやボールのグラフィックスを表示したかったのに!と思ってたかもしれません。
つまり、私がここで主張しようとしている仮説と言うのは、昔のゲームのグラフィックスについて、「プレイヤーの方ではそういう”美学”なんだと思って受け入れていたのが、実は開発者の方では”制約”だと考えていた」という”錯誤”(食い違い)の歴史があったんじゃないかという事です。
例えば、世界で初めてガッツリ3DCGが使われたとされてる映画、トロンという作品があります。↓
これも…今見ちゃうと「むしろ逆にカッコよくね?」が出ちゃうんだよな…それがまた話をややこしくしてしまう。
じゃあ一昔前の、2000年くらいの人達がこれを見たとしましょう。
彼らは「昔はこんなショボいCGしか出せなかったのかよ!」とか思っちゃって、トロン当時のCGの制約をヒシヒシと感じるでしょう。
しかし、トロン公開当時の人達は、「見た事もないカッコいいCG映像!」と思って興奮したかもしれません。
技術的制約のせいでこんな映像になってる事を知らないので、斬新な美学の映像だと思ってしまってたという事です。
PONGの時と同じです。
その後、大衆はCG表現がドンドン進化してくのを目の当たりにする事で、トロンのCGは単に技術的制約のせいでああせざるを得なかった事に気付きます。
ですから、「騙されてたなあ!」とか言って、トロンに対して斬新で新しい美学!と思ってた認識を、ダサくて古い制約の産物!という認識で上書きしてしまったという事です。
それで、現在の我々というのはそういう大昔の経緯を忘れてしまってて(というか生前の話だったりするし)、何も知らないフラットな状態でトロンの映像を見ると、「むしろカッコ良くね?」という感じで結局美学を感じ取ってしまいがちというのがこの不思議な美学と制約の錯誤現象のトリックです。
この前、このブログでドット絵の魅力について考える記事を書きました。
ゲームのドット絵についても、この美学と制約の話が当てはまると思います。
ファミコンで遊んでいた当時の我々は、ドット絵のグラフィックスを技術的制約の産物だなんて全然思っていなかったはずです。こういうもんだというか、こういう美学、スタイルだと思ってたでしょう。
しかし、ゲームの開発者にとっては、制約まみれの状態で、できるだけ工夫を凝らしつつ、妥協してゲームを作っていたのが実際でしょう。
スーパーマリオブラザーズでも、雲のグラフィックスを使い回して草を表現するというような、涙ぐましい努力をして容量を節約していました。
開発者は、「もっとロム容量があればなあ…とかもっとリアルな表現ができればなあ…」なんて夢見ながら制約に苦しんでゲームを作っていた事でしょう。
そういう中で、ニンテンドウ64とかプレステ世代のゲーム機になると、ドット絵を使わなくてもポリゴンを使って3Dのゲームを作れるようになりました。
ゲーム開発者は、「これで2Dドット絵の制約から解き放たれて、もっと凄いゲームが作れるぞ!」とか言って、それまでやってたドット絵表現をアッサリ捨て去って、嬉々としてポリゴンでゲームを作り始めました。
この時期にポリゴンに移行したIPは山ほどあります。FFもドラクエもボンバーマンもマリオもゼルダもポリゴンになりました。
むしろポリゴンにならなかったゲームあったっけ…ロックマンとかストリートファイターくらいでしょうか。ロックマンもロックマンDASHはポリゴンになりました。
それで、ゲーム機のメーカーも、新しいゲーム機を売りたいばかりに、「今までのゲーム機では技術的制約でショボいドット絵のゲームを遊ばされていた皆さん!新しいゲーム機を買ってカッコいい3Dゲームを遊ぼう!」みたいな、大げさに言えばそんな感じの宣伝をしまくりました。
そんなんですから、別にそれまでドット絵のゲームで何不自由なく遊んでいて、ドット絵を”そういう美学”として楽しんでいたプレイヤー達も、「今まで騙されてたんだ!ドット絵はこういう美学なんじゃなくて、ハードウェアの制限でこんなショボい絵しか出せなかっただけなんだ!」と信じ込まされました。
とまあ、これが「昔のゲームはグラフィックスがショボかったのに、当時は気にならなかった」理由の仮説です。
まず”昔のゲームのグラはショボい”という部分がそもそもマーケティングで信じ込まされていたウソと言えるかもしれません。
逆に、「いや、ドット絵って制約じゃなくて美学だよね」と敢えて今言ってしまえば美学になっちゃうかもしれません。
豊井さんが描くドット絵もそういう事だと思います。
ゲーム開発者達が技術の進歩に流されてどんどん捨て去っていった過去の表現方法は、まだまだちゃんと掘り下げていけば価値が眠っている金脈だったかもしれません。
さて、プレステが出た以降はどうなったのか?と言うと、プレステ2とかプレステ3、プレステ4とか新世代のゲーム機が出るたびに後は同じ事の繰り返しです。
今までのゲームのグラはショボかった!次世代機でもっとこんなにリアルなグラフィックスが出せますよ!というマーケティングが繰り返されました。
スーファミからプレステへの移行でドット絵からポリゴンへと大きな変化がありましたが、それ以降はひたすらハードウェア性能が向上するばかりで、ポリゴンという表現自体は変わりませんでした。
ですから、私は以前はドット絵VSポリゴンという対立項だけで考えてて、同じポリゴンのゲームに関しては、どんどんハード性能が向上して進歩すればするほど良いだろうくらいに思ってました。
そういう認識が変わったのはこういう画像を見たからです。↓
これらはR4-リッジレーサー タイプ4-というナムコのプレステのゲームのスクショです。
devilsblushというtwitterアカウントの方は、色んなレトロゲーの画面を撮影して上げまくってます。
初代プレステのゲームのグラなんて、本来であればショボすぎて見るに耐えないという事になるハズです。
しかし、私はこれを見て、「逆にメチャクチャカッコ良くね?」と思いました。
現代人がPONGとかトロンとか見た時に思うアレと同じです。
これは私だけが感じてる事ではないらしく、こちらの方なんて、「このスレはPS1が究極の美学である事を証明している!」と言ってます↓
つまり、同じポリゴンではあるものの、初代プレステにはそれ特有の美学がある!という事になるかもしれません。
というわけで、ここではゲームのグラフィックスというのは新ハードが出るたびにそれ以前の表現が否定される歴史であって、プレイヤー側も毎回それが美学だと思ってたのに単なる制約だったと暴露されて、今まで騙されてたと思って過去の表現をネガティブに感じるようになる流れについて書いてみました。
それから、過去のゲームグラフィックスはそうやって一旦ネガティブな印象にされた後、20年くらい経つとそういう経緯を忘れちゃって、あるいは見た事のない世代があらためて見てみると、「これって逆に良くね?」が出てきて、美学のようなものになるという話でした。
ゲームグラフィックスってリアルなほどいいのか?
さて、プレステ以降のプレステ2、プレステ3、プレステ4、プレステ5というゲーム機の進化の歴史は、言ってみれば表示できるポリゴン数が増えていって、あとシェーダとかが強化されるという、要するにポリゴンがどんどんリアルに表示できるようになってくだけの歴史でした。
コントローラなんか、初代プレステのデュアルショックからプレステ5のデュアルセンスまで、ぶっちゃけあんま変わってません。
しかし、ゲームグラフィックスって果たしてリアルなほどいいもんなんでしょうか?
ゲーム機メーカーからすると、とにかく「次世代機ではこんなにグラがリアルになります!」とアピールすれば、たとえばポリゴン表示可能数とかの数字で比較できて分かりやすいですし、ゲームプレイヤーからしても「う~ん、たしかにリアルになったなあ」とすごく分かりやすい(しかしここで「でもゲームってリアルならいいってもんなのか?」と立ち止まって考えてみるべき)ので、マーケ的に都合が良かったでしょう。
しかし、これを言うと「単に年食ってついていけなくなったんだろ」と言われそうですが、最近のリアルなグラのゲームって、どれも似たかよってて見た目で区別が付かない…気がします。
例えばこれがモンハンのグラです↓
これは三国無双のグラです↓
これはFF14のグラです↓
いかがでしょうか。
他の人が見たら、「全然違うよ!」と思うのかもしれませんが、私からすると、たとえば画像見て何のゲームか当てろとか言われると困ります。
さて、ここで最初にした西洋絵画の歴史みたいな話が絡んでくるんですが、”リアルを追求するほど美学的じゃなくなる”ような気がするんですよね…。
だって、リアルって突き詰めると実写になっちゃうじゃないですか。
ドット絵とかローポリの頃のゲームの方が美学的だったりして…。ゲームのグラフィックスって西洋絵画の歴史を逆行しているのでは!?(まあ実際には最新のゲームでもスタイライズされた個性的なグラフィックスのゲームも一杯出てますが)
そういえば、このブログでもたびたび言及してますが、ゲームエンジンのUnrealEngine5は、Naniteによって無制限にポリゴン表示できるようになって、LumenによってリアルタイムGIが表示できるようになりました。
要するに、プリレンダーと同じくらいの高品質CGがゲームのリアルタイムで表示できるようになったわけです。
そして、UnrealEngine5のこれらの機能は最新のXBoxやプレステ5向けゲームに対応しています。
つまり、プレステ5の世代で、グラフィックスのリアリティの表現は行く所まで行きついてしまったわけです。
すでにUE5を使って開発中のゲームの画像や動画が上がったりしてます↓
いや、たしかにリアルです。メチャクチャリアルですね。
しかし、ここまで行きついちゃったらもうこれ以上リアルにはできないでしょう?
というか、PS4からPS5になった時も、すでに違いがほとんど分からんが?という話がありました。
たしかに、これまでのゲームのどんどんグラフィックスをリアルにしていくという流れは分かりやすかったですし、マーケティング的にも効果はあったでしょう。
しかし、もはやリアリティ表現が行く所まで行ってしまった今、西洋絵画がリアル追及で行き詰った歴史と同じポイントに到達しようとしています。
印象派の独自の美学を持った画家たちが現れたように、ゲームもそろそろ単にリアルを追求する流れから一旦立ち止まって見て、”美学“について考え直してみる時期に来ているかもしれません。
ちなみに、ソニーがプレステでリアル一辺倒に進化していったのに対して、任天堂のゲーム機は、WiiU辺りからハードのスペック競争から降りている印象があります。
任天堂は早い内から「ゲームのグラとかリアルならいいってもんじゃねえだろ」という事に気付いていたのかもしれません。
美学が必要なゲームとそうでないゲーム
とは言え、とにかくグラフィックスがリアルならリアルなほど良いゲームもあるにはあると思います。
例えば、スポーツゲームとか、実車を扱うレースゲームはグラがリアルなほど良いでしょう。
例えばグランツーリスモはソニーが新ハード出すたびに最新グラフィックスを駆使した超リアルなグラフィックスでリリースされてます。
しかしあいにく、私はそういう系のゲームに興味を持った試しが無いです。
さて、それじゃあゲームを作る際に、独自の美学を入れるべきなのか、それともリアルを追求すべきなのかについて、簡単に判断する方法を考えてみました。
テレビで観戦するような類いのジャンルについては、リアルなほど良さそうです。野球の試合とか、バスケの試合、カーレースはテレビでは実写映像を見て観戦します。
こういうのは、ゲームでもグラがリアルなほど良さそうです。
そう言えば、任天堂はあんまこういうゲーム作ってないですね。
それ以外のジャンルについては、リアルなほど良いとも限らないという事になるでしょう。
まあ、実写映画を意識した内容のゲームなら、やはりリアルを追求した方がいいかもしれません。リアルな戦争を体験させたいFPSゲームならリアルなグラフィックスが適してるでしょう。
アニメを意識した内容のゲームなら、アニメに寄せた方がいいでしょう。
さて、じゃあ自分のゲームには”美学”を入れようかな。と考えたとして、どういう美学を入れるのが適切なのでしょうか?
ぶっちゃけ美学は美学であれば何でもいいっちゃいいとは思います。
絵画だって、みんな独自の美学がありますが、スーラの点描とか、モンドリアンの抽象画とか、正直もう何でもアリみたいなところがあります。
ゲームでも、まあ私の場合はとにかくパッと見で目新しくさえあれば「おっ?」と思うので、なんか目新しい感じの何かの美学があるとよいでしょう。
しいて言えば、ゲームプレイの邪魔にならないような美学が適していると思います。
これは個人的なイメージですが、なんとなく、シンプルで情報量が少ないほど、「美学的だなあ…」と感じるような気がします。
ファミコンとかの頃は、「性能的にシンプルな画面しか出せねえんじゃん!美学じゃなくてそれしかできひんのやろ?騙されんぞ」という感じでしたが、当時から比べると数千倍、数万倍に性能が向上した今敢えてファミコン並みにシンプルなグラのゲームを出したら、「おお、美学だなあこれは。リアル一辺倒な昨今のゲームグラフィックスに一石を投じている!素晴らしい!」という感じです。
それに、表現がシンプルだとゲーム画面が見やすくなりすいでしょう。しかし、PONGまで行ってしまうと極端なので、限度があるでしょう。例えばDownwellは白と黒を基調にしたドット絵で、差し色で赤が入ったりしてて、かなり美学を感じます。
現実世界はゴチャゴチャしすぎてて、つまり完全にリアルな世界は美学を感じない世界と言えるかもしれません。
逆に現実以上にゴチャゴチャさせちゃったりしたら、それはもうキツいという事が想像できます。
どういう美学がゲームに適してるんだろう?という話は、それはそれで研究の余地がありそうですが、とりあえずsteamに行くと色んな美学のゲームが売ってます。
例えばHylicsというゲームは相当個性的な美学を感じるゲームです↓
Monument Valleyというゲームは、エッシャーに寄せてました↓
steamで色んな有名ゲームを眺めてると、まあ大体こういう感じか。と言うノリが掴めそうです。
敢えてPS1世代のグラフィックスを真似て作られたゲーム
豊井さんのドット絵を、これまで書いた美学と制約の話で語ってみると、こんな感じでしょう。
まず、ドット絵は、ファミコンとかの時代はゲームプレイヤーにはこういう美学だと思われてました。
しかし、ポリゴンゲーが出てきた時に、「ドット絵は技術的制約でしょうがなくやってた古臭い表現!」という事にされて、一旦ネガティブな印象が付きました。
そしてドット絵は忘れ去られていって、それに伴いドットに付けられたネガティブな印象も忘れられていきました。
そして、ある日豊井さんのような方が「むしろドット絵よくね?」と言い出して、ガンガンドット絵を描いて見せると、それを見た人は、「たしかにむしろいいな」ってなりました。
こうなると、ドット絵は美学として完全に復活した事になります。
ゴッホはまったく新しい美学の絵画を描いて、なかなか大衆に理解されずに苦労しましたが、ドット絵という美学のいい所は、かつては誰しもが馴染んでいた表現ですから、「なつかしいなぁ~」と言ってスッとみんなに受け入れられるメリットがあります。
それでいて、一旦ネガティブな印象が付いていた時期があるせいか、ある意味絶滅したみたいな感じで、同じような表現をやるライバルが少ないのもアドバンテージです。
さらに、現代のキッズや若者からすると、ドット絵なんてロクに見た事がありませんから、「斬新な表現だ!カッコいい!」という事になります。(多分)
そんなわけですから、誰も見た事がない斬新な美学を生み出すより、一旦廃れた過去の美学をもう一度発掘してくる方がメリットが沢山ある事になります。
さて、上でも書きましたが、初代プレステのグラフィックスも、今あらためて見てみると、「逆によくね?」みたく感じてしまう、ドット絵の時と同じような美学の種があるような気がします。
(しかし、私が「逆に良くね?」と思ったのはR4のスクショですが、ナムコにして見たら別に当時そういう美学を敢えて入れようなんて思ってなくて、単に初代プレステの性能の中で頑張ってリアルな表現をやろうとしてただけかもしれませんが。)
豊井さんの成功例をなぞって、同じパターンをドット絵じゃなくPS1風作品でやる事で、成功の二番煎じが可能かもしれません。
とは言え、初代プレステ逆に良くね?をやってる人は実はすでに沢山います。
その先駆者は、「Back in 1995」という初代プレステ風ゲームをリリースされたIchijoさんです。
Ichijoさんがこのゲームを出した後、追随する人達が沢山現れているそうです。
例えば、休符さんが制作中の”水瓶上のフェルマータ“というPS1風?ゲームも注目を集めています。
休符さんはロックマンDASHの影響を強く受けているとどこかで書いていた気がします。
さて、インディーゲーム開発者が、ドット絵とか初代プレステ風とか、そういうレトロゲー風のグラフィックスを採用するのは、単にそういう美学が好きだからという以外にも理由があったりします。
上で述べた通り、最近の大手のゲームのグラフィックスは、超リアルです。
という事は、ゲームのキャラクターや背景の机だのイスだのと言った小物を一つずつ超リアルにモデリングするハメになります。
これは、気が遠くなるほど大変な作業です。
大手のゲームでは、何十人も3Dモデラーを雇ってモデリングさせてるからなんとか可能なのです。
ですので、個人開発者はそんなリアルなグラフィックスでゲームを作ろうとしても、そもそもそれは不可能です。
しかし、ドット絵とか初代プレステのローポリ3Dモデルなら、比較的短時間で素材を用意していく事が可能です。
しかし、そんなにゲーム制作コストが圧縮されるなら、どうして大手は追従してPS1風ゲームを作ったりしないんでしょうか?
ゲームに限らず、メジャーな商業作品と言うのは、何も知らんド素人でもいいと思えるような表現が求められます。要するに万人受けするモノを作るという事です。
マニアじゃないと理解できないようなモノを作っても、ニッチすぎて売り上げが見込めないので、そういうのは大手は相手にしないという事です。
「敢えてPS1風に作りました!」みたいなゲームも、ゲームファンからすると「たしかにこれは逆にカッコいいね!」となりますが、ド素人の方からすると、「なんか古臭くてショボいグラ…」と思うかもしれませんから、美学を理解できない人も結構いますから、ニッチという事になります。(とにかく超リアルです!という価値観ならどんだけド素人でも分かるので大手のゲーム向きですね)
レトロゲーム風は、大手が攻めてこないニッチだから競合しないというメリットもあるという事です。
「な~んだ、ニッチなのか」と思われるかもしれませんが、たとえばUndertaleだってドット絵でレトロゲームリスペクトな美学モリモリですが、100万本以上売れてます。
ニッチな世界で爆ウケしてしまうと、それ以外のドット絵見た事無いキッズとかにも飛び火して「見た事無い斬新なゲーム!」みたいな感じでウケちゃって大ヒットしてしまうというような事かもしれません。
戦国TURBの話
戦国TURBというドリキャスのゲームがありますが、最近、twitterの海外の特定界隈で地味に話題になってます。
戦国TURBのグラフィックスを見ると、「かなりポリポリしててチープだけど、まあレトロゲームだしこんなもんか。」とか思うかもしれませんが、このゲームは1999年のドリキャスのゲームですが、ドリキャスは同じ年にシェンムーがリリースされてます。
つまり、当時からしても敢えてチープなグラフィックスにしてるという事です。考え方としては現在のインディーゲームクリエイターが敢えてPS1風ゲーム作ったりするノリと同じで、その先駆者だと言えます。
黒柳陽子さんという、たまごっちのキャラデザインもされていた方がキャラデザをやっています。
この戦国TURBのいい意味で力の抜けたキャラクターが、一部の海外勢からすると「むしろクールじゃね?」みたいな風潮になってて、ファンアートとかもぼちぼち描かれてます。
最近はレトロゲームが遊びづらい
さて、上でPS1風ゲームがアツい!という話をしましたが、そのカウンターとしての話になりますが、
「PS1風ゲームがやりたきゃ、普通にPS1のゲーム遊べばいんじゃね?」という意見もあるかもしれません。
まあ、実際レトロゲームはメチャメチャ一杯あります。
特にPS1のゲームは、それまでの任天堂ハードでゲームを出すのに比べて大分敷居が下がったらしく、奇ゲー珍ゲーも腐るほど一杯あります。
ユーチューバーが珍ゲーをゲーム実況して再生数稼ぎたいなら過去の遺産が充分活用できます。
ただし、PS1世代のゲームは3Dポリゴン黎明期なためか、今思うと操作性に難があったな…と思うようなゲームも多いです。
たとえば、マリオ64とかも、あの宮本茂のマリオと言えども、カメラ操作とかはやや模索段階だったような気がします。(ゼルダ時のオカリナのカメラシステムはゲームファンに褒められてた印象)
ですから、PS1風のゲームを作る時に、ガワはPS1のグラだけど操作性は現代的で快適!とかなら差別化できるでしょう。
それから、ガワはPS1だけどゲームの中身は新機軸!とかも売れそうです。
たとえばUndertaleもグラフィックスはレトロゲーリスペクトですが、ゲームのテーマ(誰も死ななくていいやさしいRPG)は新機軸でした。
もう一つのポイントとして、なんか最近のゲーム環境ではレトロゲームが遊びにくくなっているという点があります。
ソニーはゲームアーカイブスという、PS1やPS2、PCエンジンのゲームソフトをダウンロード購入してプレイできるサービスをやっていて、タイトル数がかなり充実していました。
対応しているゲームハードはPS3、PSP、Vitaです。
しかし、このゲームアーカイブスは何故かPS4やPS5は対応していません。
代わりに、PSNowという、サブスクでクラウドゲーミングで遊び放題なサービスがありますが、こちらは割と新しいゲームばかりでレトロゲーは無さそうです。
余談ですが、私はICO20周年の記事を見て、久々にICO遊びたいなあと思いましたが、PS2もPS3も実家に置いてきてしまっていて、手元にPS4しかありません。
PS4だとPSNowでICOが遊べるようですが、HDリマスター版しかありませんでした。
たしかに、以前の私だったらPS2のICOよりもHDリマスター版の方がいいに決まってんだろ!と思ってたでしょうが、「逆にPS1よくね?」と思い始めてる今となってはむしろ最初のPS2版が遊びたかったりします。
ちなみにPS2版のICOはGPL違反が見つかったとかで絶版になってるので今後も新しく遊ぶ手段は用意されないでしょう。
さて、任天堂もwiiの時代はバーチャルコンソールで遊べるレトロゲーのタイトルが相当充実してました。
しかし、バーチャルコンソールもやっぱり現行機のSwitchでは対応していません。
代わりに、Nintendo Switch Onlineというサブスクに加入すると遊び放題なファミコン、スーファミ、N64タイトルがあります。
しかし、バーチャルコンソール時代に比べるとタイトル数はかなり減ってしまいました。
どうして任天堂もソニーもかつては充実してたレトロゲーで遊べる環境が今では悪化してしまってるのでしょうか?
まあ、次世代機が出るたびにタイトルごとに対応するのが面倒くさかったんだとは思います。
そんなですから、一般ゲーマーにとって最近はレトロゲーが遊びづらくなっている環境ですから、「なんか懐かしい感じのゲーム遊びたいなあ」って人にはSteamとかで手軽に買ってプレイできるPS1風ゲームの需要も増大しつつある可能性も…多分あるでしょう。
まあ、本当にレトロゲーで遊びたい人はアーカイブがあるPS3やwiiを入手するでしょうし、それでも遊べないゲームは旧世代機の実機を買ってプレイしてますね。
レトロブームについて
ゲームに限らず、様々な文化でレトロなものを懐古するレトロブームは常に起きてます。
ブームと言っても、大ブームとかではないです。ニッチな局所的ブームだったりします。
AC部さんは有名なので誰でも知ってそうですが、AC部さんの制作する動画には昭和のCMみたいなフレーバーが盛り込まれてます。
Vtuver 蟹さんは、PS1(N64?)ゲーム風なグラフィックスでVtuber的に動画などを制作されてます。
N64のゲームのネタを入れまくった動画とかが面白いです。
葛飾出身という方は、日記と称してtwitterでレトロフレーバーな動画でその日あった出来事を報告されてます。
そう言えば、1980年代のシティポップが何故か世界中で大人気になってるという現象も起きてたりします。
2021年、シティポップの海外受容の実態 Spotifyのデータで見る
どうしてそんな事になってるのか、正直言って記事を読んでもよく分かりませんでした。
そういえば、豊井さんのドット絵の昭和の街並みな感じが海外でウケてるというのも不思議な話でした。
日本のおじさんとかが自分の子供時代の昭和を懐かしむ、という話ならよく分かりますが、外国人は日本の昭和の文化とか知らないでしょう。
まあ、初めて見たもの、聴いたものに不思議と懐かしさを感じるという事もあるのかもしれません。
たとえば、日本のアニメやゲームの音楽がシティポップとかを参照していて、外国人の人もアニメやゲームに馴染んでく内に、知らず知らずの内にシティポップの魅力が刷り込まれていた…というような仮説は想像できます。
おわり
最近、ゲームを作りたいなあと考えていますが、どのような美学(スタイル)のゲームにすべきか?というのを決めなければなりません。
何でも好きなように作ればいいじゃんという話ですが、個人開発でのゲーム制作は、最初から色々な制約がある事に気付きます。
まず、大手の大作タイトルのようなゲームは作れない事は明白です。極めてリソースが限られてるからです。
ですから、一番グラフィックスのコスパが高いのは2Dドット絵ですから、「2Dドット絵のアドベンチャーゲームを作ろうかな。」というのは去年やろうとしました。
しかし、制作開始してみると、ドット絵のキャラって動きを付けようとするとアニメみたいにキャラのアニメーションパターンを大量に作画するハメになって、意外と大変だという事に気付きました。
しんどくなったのでこれは制作中断されました。
これならドット絵より3Dモデルのキャラクターの方がコスパいいかもと感じました。
3Dなら大量に作画しなくてもポーズを付けていくだけで動きが付けられます。それに、色んなキャラでアニメーションの使い回しも可能です。
ですが、やはり大手の最新ゲームみたいに緻密な3Dモデルを作っていたら時間がかかりすぎてしまうので、やっぱしローポリだよな…という話になります。
で、今敢えてローポリ3Dでゲーム作るとなると、そんなゲームってどういう美学なんだろう?と逆算して考えると、やはり「敢えて今PS1風でゲーム作りました!」って言っちゃうのが手っ取り早いよねとなります。
そんなわけで、PS1風ゲームという美学は正当化できるだろうか?と考えて理屈を書いてみました。
普通に考えると、PS1のゲームのグラはショボいと思われがちですが、それは次世代機を売るためのマーケティングのせいでそう思い込まされていただけという説です。
ある程度時間が経って思い込みとかが無くなって、フラットな気持ちで、今あらためてPS1のグラを見てみると、「むしろ逆にいいんじゃね?」と思える気がします。
そしてレトロの文脈に乗っかると、ライバルは少ないし、大人が見るとなつかしいと思ってもらえるし、子供が見ると新しいと思ってもらえるし、大手とも競合しないし、いい事づくめである事も書きました。
それから、まったく斬新な美学で作品を作ると、みんなから理解を得られるのにやたら時間がかかったりします。その分最終的な名声は爆上がりするかもしれませんが、死んだ後評価されても困るっちゃ困ります。
その点、レトロな美学を持ち出す場合は、誰しもかつては馴染んだことのある表現ですから、スッと受け入れられてラクです。
結論としては、作るならPS1風ゲームがアツい!という事になりそうですから、そういう方向性でちょっと制作を考えてみようかなという気分になりました。