この前の記事で、アンダーテールを例にして、マンガとゲームではキャラクターの表現方法が違うかもしれないという話を書きました。

マンガでは、”アクションとリアクションの積み重ね”でキャラを表現しますが、ゲームだと主人公が勝手に喋るとプレイヤーがシラケるので、同じ方法は使えない。
アンダーテールでは、弾幕、パズル、電話の3つの要素でプレイヤーにキャラクターを”体験”させている…という話でした。

ですが、この考え方で行くと、シナリオの表現方法もゲームとそれ以外のマンガや映画などでは違いがあるような気がします。

ドラクエやマザー2、アンダーテールなどのゲームでは、主人公は一切喋りません。せいぜい選択肢のはい、いいえの意思決定をするくらいで、それだってプレイヤーの意思に過ぎません。

映画では、主人公がまったく喋らない映画なんてほとんど見かけません。
もうこの時点で、アンテ系ゲームと映画ではシナリオの作り方が違うだろう事が予想できます。

私は今までゲーム制作の役に立つと信じて映画の脚本ノウハウ本とかも読んだりしてましたが、ひょっとすると映画の脚本のテクニックはゲーム制作では役に立たないのかもしれません。

よくよく考えてみると、アンダーテールにシナリオらしいシナリオってあったっけ…という気がしてきます。主人公は最初の穴底から、ひたすら地上に向けて進み続けるばかりで、それで地上に出たらオシマイ…というだけです。
ICOだって結局は脱出ゲームのように城を探索して出口に出たら終わり…というだけです。

それでも、ICOやアンテのクリア時には、映画を観終わった時と同じような、あるいはそれ以上の深い達成感を味わえます。

要するに、アンテでは映画のようなシナリオの代わりに、”移動“がある…といえるかもしれません。
移動と言ってもかなり長距離の移動…つまり””ですね。

というわけで、ゲームでは映画的なシナリオが上手く機能しない場合は、”旅”に置き換えらえるという仮説が立てられます。

風ノ旅ビトのようなゲームでは、シナリオどころかテキスト自体がほぼ存在しませんが、旅だけがあります。それでもやっぱりエンディング時にはかなりの達成感が感じられます。

旅ができるのはテレビゲームならでは?

あらためて言うまでもないですが、テレビゲームでは、キャラクターを自分で操作して移動できるゲームが多いです。
例えば、マリオだって、何をするゲームか?と言われたらひたすら右に移動するゲームとしか言いようがありません。

それに対して、チェスや将棋、トランプ、ボードゲームのようなテレビゲームじゃないゲームでは、旅をしてるかのように錯覚できるような移動要素を持っているものは私はあまり知りません。

という事は、バーチャルな旅ができるというのは、テレビゲームに特有の特徴なのかもしれません。

さて、テレビゲームにおける”移動”というのは、ゲームといえるのでしょうか?それとも、それは人間の移動行為をシミュレートしているシミュレーションなのでしょうか?
私はシミュレーションだと思います。
何故なら、例えばDear Estherのようなゲームは、”ウォーキングシミュレータ”と呼ばれているからです。
Dear Estherは、元々Half-Life2という銃を撃ち合うFPSゲームから、銃撃要素とかを取り除いて制作されたModでした。

つまり、銃を撃ち合うゲームから、銃を撃ち合う要素を取り除くと、移動する要素だけが残って、それはウォーキングシミュレータだ、というわけです。

つまり、
いわゆるテレビゲーム ー メインのゲーム要素 = 移動シミュレータ
という形になります。逆に言えば、
移動シミュレータ + メインのゲーム要素 = いわゆるテレビゲーム
という形になります。

例えばゆめにっきは、RPGツクールで作られてますが、バトルはありません。ただひたすら歩き回るだけです。これも一種のウォーキングシミュレータでしょう。

というわけで、移動のシミュレーションができるのは、テレビゲームならではの特徴であって、大きな距離を移動すれば、あたかも旅行のような満足感が得られるらしい…という話です。

こちらの記事では、コロナ禍のロックダウン中に、実際に出歩く代わりにウォーキングシミュレーターで遊んでみた話が書かれてます↓

ゲームの中を歩く愉しみ:ウォーキングシミュレーターの意外な精神的効果

ちなみに、これとは逆の話もあります。
スマホのソシャゲは、いわゆるテレビゲームから移動要素を取り除いてインゲームだけが残ってるみたいなものが多いです。

どうしてソシャゲでは移動要素が取っ払われてるのか?というと、これまた想像ですが、スマホには物理ボタンが付いてないのが原因かもしれません。

ゲームパッドやキーボードなどの物理ボタンによる移動操作は、移動シミュレーションとしての忠実度が高まりやすい…つまり移動がたのしいのに対して、スマホのタッチスクリーンによる移動は忠実度が低い…つまり面白くない…のかもしれません。

代わりに、スマホでは指でなぞる操作とか引っ張ってはじく操作がたのしいので、そういう操作が前面に押し出されてるゲームが多いです。

映画の体験の仕組みとゲームの体験の仕組み

ゲームはデザインされた体験だ…という説はこのブログでしょっちゅう言ってますが、しかし映画鑑賞だって体験には違いないハズです。

じゃあ映画鑑賞って厳密にはどういう体験なんだろう?と考えてみると、視聴者は、まず主人公に感情移入します。そうする事で、主人公が葛藤してるシーンを見ると、間接的にあたかも視聴者自身が葛藤してるかのように錯覚できるという体験…と言えるかもしれません。

そうした場合、映画のシナリオは、アレコレ工夫して観客に感情移入するように仕組んで、それから葛藤を入れて…という感じで、割と回りくどい方法で視聴者の体験をデザインしてる…と言えるかもしれません。

一方、ゲームの場合は話はもっと直接的です。
何故なら、ゲームではそもそもプレイヤー自身が葛藤するハメになるからです。

私はキヨ氏のアンテ実況を観ていてそう思いました。
自分でゲームを遊んでる時は、ゲームプレイに忙しくて自分の体験を客観視する事が難しいですが、ゲーム実況を観てるとプレイヤーまで含めてゲーム体験を客観視しやすい気がしますね。
さて、アンテのプレイヤーは、敵と出会うたびに、どうやって傷つけずにやり過ごそうか、葛藤と戦います。
他にも、パズルを解くのに悩むのもまあ、一種の葛藤です。

つまり、ゲームでは、道すがらに敵キャラやパズルを配置しておくだけで、直接かつ簡単にプレイヤー自身を葛藤させる事が可能です。

体験のデザインという点で比較すると、映画は視聴者に直接葛藤させる事ができないから、間接的に葛藤させるためにアレコレテクニックを駆使して高度な技巧でシナリオを工夫するハメになってる…という見方もできるかもしれません。

私は以前から、「ゲームって映画に比べるとシナリオが大したことない割に、それなのに映画よりやたら感動したりする事がある気がするなあ…」と思ってましたが、それはこういう理屈だったのかもしれません。

というわけで、ゲームと映画のシナリオについて雑考でした。